魔人がこの世界に帰ってきて、夜を共にすることが増えた。傷は治ったのかと肌に指を這わせたのが事の始まりだったのではないかと弥子は記憶している。掌を重ね、唇を重ね、体を重ねた。 初めはただなんとなくだったその行為も、回数を重ねるほど余計な思考が頭を巡った。 ついに、一線を越えてしまった。魔人の腕の中で弥子は繰り返す。ついに。一線を越えてしまった、と。 禁忌を犯したとは思わなかった。魔人という概念にとらわれるのはとうの昔にやめたことだ。共に過ごすにはそう考えた方が楽だったのだ。 一度味わってしまえば、抜け出せない。決して舌の上で味わう事はできないが、体を重ねるという事は甘美で脳髄を蕩けさせた。 どれだけ魔人のものを体内に受け入れても、子を孕むことができないと知ったのは、つい最近のことだ。そういえば避妊を一度もしたことがないと、布団の中で零すと、 種族が違うのだから必要はないと魔人は冷淡な口調で言い放った。こどもが、できないってことなの。弥子が発した言葉は震えていた。静寂の後、そういうことだと魔人の声が耳に届いた。 その夜弥子は魔人の顔を見ることはなかった。肩に顔を埋めて、瞼を閉じた。何のために体を重ねるかと問われれば、快楽のためであり、魔人の存在を確かめるためだった。 だから、平気だ。涙は流さなかった。けれど、眠るには心が許してくれないようだ。隣から寝息は聞こえない。魔人は眠る事を忘れてしまっていた。体力はもう万全であるのだから、眠りは必要ないのだ。 それでも、魔人は体を横たえ、弥子の背に手を回す。





あの夜は絶望だったと弥子は思いだす。ひやりとした感覚が体に駆け巡った後、心臓が熱をもった。 この男の、子を望むことはできないのだと。子を授かるためにしている行為ではないと分かり切っていたし、望んでもいなかった。 しかし、不可能を叩きつけられると人間は強欲になる。回数を重ねれば重ねるほど、欲は増していく。 魔人が再び現れて、数年が経とうとした夜、一度も口にしたことがなかった言葉を囁いた。聞いた途端、魔人は嫌悪をあらわにした。

忘れているわけではあるまいな。

いいえ、忘れていないわ。

いいのか。

いいの。

それならば、と魔人は口づけをした。頭痛と痺れと吐き気が一気に込み上げてくる。息を、吸いたい。弥子は逃れようとしたがきっちりと手足は押さえこまれていた。 しぬかもしれない。
瞼を閉じているはずなのにちかちかと光がみえる。七色の光が段々と濃くなる。
いやだ、しにたくない。
胃が痙攣しているのも分かる。耐えられないと言っているようだ。臓器が戦慄いている。
いきたい。あんたとまだ、いきていたい。
唇が離れる。心臓が脈を打っている。息がちゃんと吸える。目をあけた瞬間に飛び込んできたのは、魔人の泣きそうな顔だった。
「生命力の強い奴だ」
魔力の注入がこれほどのものだとは。弥子は長い間魔人とともにいたが、そのときにやはり自分たちは違う種族であったのだと実感した。 何十年何億年と共に過ごしても、その事実は変わりない。魔人はキスをするときに、どれほど気をつけていたのだろうだなんてことが頭をかすめる。長い腕が弥子を離さない。おなかすいた、と呟くと、魔人は何が食べたいのか尋ねた。
「白いごはん」
どうやら食の嗜好は人間のままに保たれたらしい。






月日が流れるのは早い。ぱたぱたと少女が部屋の中を走り回っている。
「ねうろが、まだ見つからないの」
ふくふくとした頬をさらに膨らませて少女が項垂れる。
「さっきねえ、かくれんぼしようっていったの。ねうろ、わたしがみつけたら、ほっぺにキスしてくれるって」
ねうろと、呼ぶのは弥子を真似たらしい。魔人もその方がよいと言った。
こんな日がくるなんて、思ってなかった。魔人といつまで一緒に居られるかもわからないと思っていたのに、自分以外の人間の声が、魔人を呼ぶ。
「おかあさん、ないているの?」
はらはらとこぼれた涙は、幼子の頬を濡らした。
「どうしてか、わかる?」
「…わからない。どーして?」
きっと、わかる日がくる。私たちと一緒なんだもの。弥子が少女の髪を撫でるとにこりと笑う。 おかあさん、笑ったあ。少女も笑う。と、同時に「ねうろ!」と天井を指差す。
「ほう、優秀だな」
天井からふわりと床へ足をつけた魔人が跪いて少女の頬にキスをする。少女は満足げに頬笑み、魔人にもお返しのキスを。弥子が横目でその姿をみていると、魔人は弥子の唇にもキスをする。
「貴様にはいくらでもくれてやる」
おかあさん、いいなあと、呟く少女の唇を人差し指で撫でて、必ず叶うまじないをかけてやる。

あなたも、いつか大好きな人とね。

20121111 another ending