(続・追いかけっこはもうおしまい)


誰も届くことも見ることもない、自分だけの世界で過ごしてきた。 同じひとが集まっても、みんなもっているのはひとりきりの世界。なかでも、一際眩しい光を照らして、道を示してくれる人がいた。進むだけでいいのだとその人は言った。そのことは好きだった。 とても楽だったからだ。けれど、お互いの世界に足を踏み入れることはなかった。足を踏み入れるだなんて、そんなこと、考えたこともなかった。

足音が聞こえてくる。掌を差し出される。差し出した人は笑っていた。あんまり綺麗に笑うので、つくりものみたいだった。 しばらくして、ほんとうにつくりものだったということが分かった。涙が降ってきた。一人だけの世界の足元に涙が滲んだ。 誰かがいると思えたあとに、ひとりになるのがすごく怖くなった。 あたたかくて、てばなしたくなかった。行かないで、行かないで、喚く心にしたがって追い続けた。 これが恋なのだと思った。知らないことを教えてくれた。簡単には上手くはいかないということも。 泣かれて、泣いて、笑って、突き離されて、突き離して、やっぱり忘れられなくて、抱きとめた。






「はじめてあったときのことを、覚えているかい」

紫原の腕の中にいる氷室は、目を細めた。うつくしくて、はかなげな表情を魅せる方法を氷室は知ってる。 幾度もその表情に欲情して、全てが欲しいと思った。手に入らないものなんて、なかったから、かんたんに手にいれることができてると、思っていた。 浅はかだなと今ならわらえる。必死になっていた自分の肩を叩いて、焦らなくてもいいと、余裕の言葉だってかけられる自信がある。 この腕の中におさまらないものなんてない。全部抱えて溢さない。そう思っていたのに、腕の中におさめた氷室は、しっかりと筋肉はついていて、他の人よりも確かに逞しい体なのに、抱きしめたら壊れてしまいそうだということを知った。 何も溢さないはずの腕がはじめてふるえた。ごまかそうときつく抱きしめれば、氷室が困ったように笑う。 どうやって愛せばいいかわからない。自分も氷室も、不安でしかたがなくて、言葉にするのは怖くて唇を重ねた。 それまでキスをするなんて経験はなかったから、新しい遊びをしった子どもみたいに夢中になった。
『いつか食べられそうだなあ』
舌も唾液も全てのみこんでやろうと、深く口づけたあと、氷室は息をととのえて言った。制服のシャツに皺をつけてよく怒られていた。
うん。あんたが、考えてる、ろくでもないことぜーんぶ食べてあげる。
心の中で決めたことだ。どれだけ時間がかかっても、その不安を食い尽そうと決めた。
「敦?」
氷室が、黙ったままの紫原を不安がる。ごめん、聞いてるよ、のキスを額に落とす。
「覚えてるよ。どうしたの」
正直にいえば、ぼんやりとした記憶で残っている。柔らかくも、細くもない互いの指を絡めてやると、応えるように力が込められたのがわかった。
「変わったなって思って」
「へ?」
「やさしい顔、するようになったなあって」
ほら、この目とか。背に回されていた手のひらが動いて紫原の目尻をなぞる。
「年とったからじゃね?」
くすくすと氷室が笑う。それから、お伽噺をするように氷室はゆっくりと話を始めた。



会ったときに、ギフトをもらった人間だなって、すぐに分かったよ。あの頃の俺は、そういうことを考えてばかりだったから。 その後話を聞いてても、才能がない人間を嫌うのも、当然だろうって思った。でも同時に、どうしてそう思うようになったんだろうって、思ったよ。 向こうでも色々な人に出会ってきたからね。敦はどんな人なんだろうって思ったんだ。



くしゅ、と氷室がくしゃみをした。服、着せとけばよかったな。そう思って、ベッドから出ようとしたが、きっと機嫌を損ねてしまう。 タイミングを大事にするということを紫原はこの数年で大分学んだ。代わりに肩を引き寄せると、氷室はThanksと嬉しそうな声で言った。
「敦の目は、何がうつってるんだろうって、ずっと思ってた」
「はぁ?」
怖い、とは違うけど、何だろうな。首を傾げて考える仕草をすると、シーツの上には漆黒の綺麗な髪が散らばった。
はじめて、あったときのこと。
もう一度、よく思い出してみる。季節と、場所は、どこだったろう、と。













「はじめまして、氷室辰也です。よろしくお願いします」
いつもの練習の前に集合がかけられた。季節外れの編入生がくると風の噂で聞いていたので、驚きはしなかった。 氷室の容姿はさわやかな印象を抱かせた。部員全員が頭の先からつま先までじろりと見るので氷室は苦笑を浮かべながら挨拶をしていた。
「身長いくつだ」
福井が声を低くして問うと大抵の者はびくりとするのだが氷室は表情一つ変えず応えた。
「あ、最後に、はかったときは…ええと、ひゃく、はちじゅうさん、…でした」
特に関心もなかったが、なんだか変な喋り方だなと思った。ぎこちないという言葉がしっくりくる。 言うほどのことでもなく、黙ってみていると、氷室は紫原を見て――正確には見上げて、にこりと笑った。
「お話は聞いていましたが、皆さん大きいですね」
「…っていうか。あんたが小さいだけでしょ?」
思っていたことはつるりと外へ出てしまった。自分より小さいのだから間違ったことは言っていない。 弱そうな見た目だけれど、何だか一言では表せないような空気を纏っているから、試してみたくなったというのもある。 どんと拳が背中に当たった。左隣に居た福井の目が怒っている。
「悪い氷室、こいつはこういうやつなんじゃ」
福井を宥めるように岡村が言った。
「大丈夫ですよ。慣れてますから」
「慣れてるってなぁ…。まぁ、こいつ、こういうこと言ってよく揉めてるからな。お前も来たばっかりだけど、こいつ一年だから、厳しく言っていいぞ」
「ねー、慣れてるってどーゆーこと?」
やっぱり思った通りちょっと変な人っぽい。紫原は首を傾げた。
「ああ、えっと、オレ、今までアメリカにいたから。ストレートな表現は平気なんだ。確かに君は俺よりも背が高いからね」
アメリカ育ちということに騒ぎ始め周りにも動じず、氷室は紫原に握手を求めた。ああ、だから変な喋り方なのねと思った。
「よろしくな」
馴れ馴れしいなあとは思ったものの、振りはらう間もなく氷室に思い切り掌を握られた。 記憶はそこで途切れている。編入生が来たな。その日覚えたのは、それだけだった。














「握手…したっけ?そんくらいしか覚えてない」
「あれ、握手したっけ?」
「なにそれ、聞いてきたのに覚えてないの?」
ぐりぐりと紫原が氷室の頬に顔を寄せれば、くすぐったそうにしながら、「ごめんって」と氷室が言った。
「俺は、敦の印象がすごく強かったんだ。だから、敦はどういう風に覚えてるのかなって思っただけ」
昔のことを思い出すなんて珍しい。話すのだなんて、もっと珍しい。今日なんかは、風呂から出てしまえばすぐに寝てしまうだろうとも思っていたのに。 氷室は紫原の腕の中で、とても機嫌がよい。氷室が願ったことが叶えられているのがそんなに嬉しいのだろうか。そんなの言わなくなって、いつだってしてあげるのにと思うが、願いを口にだす氷室がとても可愛かったので黙っておくことにした。
「…オレは会ったときより、その後のことの方が、覚えてると思う」
「そっか。…それは俺もだよ。敦とバスケをしたことも、高校でみんなと思い出が作れたことも…」
思い返すものは甘酸っぱいものばかりではない。痛々しくて、お互いにぼろぼろになったこともある。 きっと色々なことを思い出しているのだろう。久しぶりに曖昧な笑みを見た。
「なんか今日、昔のこといっぱい思い出すね」
思っていた疑問を口に出すと、ふふ、と氷室が笑った。
「…敦が、俺のこと見て、優しい顔で、笑うんだ。バスケも、他の人のことも、うつっていないような目だったのに、」
俺を見て、初めて会った時には想像していなかった顔で、笑うんだ。嬉しくてしょうがないんだ。

電灯を消した部屋の中で氷室の言葉が暖かな光りのように思えた。泣き虫な彼のことだからと、目尻を見てる。涙は零れていなかった。 本当に、心から、嬉しそうに言うなと思った時、泣きそうなのは自分だと気付いた。 氷室だって何を見ているのか分からなかった。人を射抜くような瞳を持っているのに、失うことを恐れて、曖昧に彷徨わせる。 どんな人とでも、接するときに氷室は笑みを絶やさなかった。関係の浅い人間に対しては、より顕著だったように思う。 目を細めて、少しだけ口角をあげる頬笑みは誰もが美しいと言った。なんか胡散臭いなあと、たまに紫原は思っていた。 だから、その氷室がこんなことを言って、嬉しくてたまらないと囁く夜が、奇跡のように思えて仕方がない。 じっとその喜びを噛みしめているとは知らずに、氷室は話を続ける。なぁ、敦、と慣れ親しんだ低音がひときわ強く鼓膜を揺るがせた。

「俺を見てくれてありがとう」


八つ当たりだってしたこともあったし、俺の我儘でたくさん辛い思いをさせたんだなって思うときもあったよ。 他の誰かと結ばれたらいいんだってずっとずっと思ってた。かわいい女の子と、結婚して、子どもが産まれてって、さ。どれだけ嬉しい言葉を言われても、ちゃんと信じれなかったよ。 信じることが怖かったから。失うことが怖かったから。けど、失うことが、怖くても、大事にしたいって、心から思えるようになったんだ。

俺を見てくれてありがとうだって?そんなのこっちが言いたい。うれしい。なにこれ、今日なんか、特別な日だっけ。
日付を思い出しても、特に何もない。当たり前のなんでもない日だ。

「ねぇ、そろそろさぁ、これからの話をしてもいい?」
「……これから?」
不安そうな顔ではない。何の話だろうと目を瞬く姿をみて、今なら言えると思った。ずっとずっと言いたくてたまらなかったことを。

「うん、この先のこと」
ちょっとごめんねと氷室の下を通っていた右腕を動かす。久々に緊張する。こういうときは向かい合った方がいいのかもしれない。 体を起こすと、氷室もつられるように体を起こした。シーツの上に置かれている氷室の左手を右手で掬い取って、持ち上げる。緊張を紛らわすために、ふぅと一息。
「ここに、約束するよ」
左手の薬指の付け根を、右手の親指と人差し指でおさえると、ぱちりと瞬きをするのがうす暗い中でもわかる。
昔何かの映画で見たやり方と似ているな、と思うけれど、それは仕方がない。言ってみると、恥ずかしさも込み上げてくる。それでも、大丈夫だ。いつかがやっと今になったことへの喜びの方が大きい。

「…あの、えっと…」
もっとちゃんと伝えたほうがいいのかもしれない。そう思って続けようとすると、氷室の人差し指が紫原の唇をなぞった。
「……みえるよ」
ああ、よかった。伝わった。形にせずとも、信じてもらえる。ここまで長かったなあと長く息を吐いた。
ぽろぽろと涙をこぼしながら笑う氷室は、昔と変わらない。とてもきれいだ。
「あつし、」
涙をこぼしながら言うものだから、まだいいよって。たくさん泣いてからでいいよって、言おうと思ったけれどやめる。 名前を呼ばれたら返事をする。コートの中でも外でも、どこでも、いつだって、何度だって、返事をしてきた。
「うん。なぁに?」
「I love you」
首に両腕がかけられた
うん、うん、うん。
震えそうになるから、下唇を噛んで必死で頷いた。鼻の奥もツンと痛むけれど、こんな小さい痛み、痛みじゃない。 雪の降る日に、こどものようなアイラブユーを告げたときの氷室はもう居なくて。あれから幾度と季節は過ぎて、やっと返事がもらえた。
「オレも、愛してる」
再び抱きしめようと腕を伸ばせば、勢い余って二人でベットに倒れこんでしまった。
けたたましいスプリングの音が鳴る。
「せっかくロマンチックだなって思ったのに…台無しだ」
「だって、嬉しすぎてさー、勢いつきすぎちゃった」
「…しょうがないなあ」
二人は額を合わせて、声をだして笑った。

20121231 Everlasting love