室ちんが廊下を通ればきゃぁ、と声があがる。顔を真っ赤にして喜ぶ女子がいる。手をひらひら振って、室ちんが笑ってみせる。 室ちんの記憶に残ってるわけもないのに、たかだかそれくらいのことで喜んでしまうなんて、ばかみたいだ。 うるさい、気に入らない、と思っていると、「敦!」って名前を呼ばれて、きゃあきゃあ言ってた女子までこっちを向いた。こういうの本当に鬱陶しいんだけど。 「また、部活でな」 仕方なく手を振り返すと、室ちんは笑って歩いて行った。あらら、顔の使い分け、ちょっと下手じゃない?って気付いてるのはオレだけか。頬に手をあてて、女子はにっこり笑ってる。 「紫原くん、氷室先輩と仲、いいの?」 室ちんが廊下から居なくなったのをしっかり確認して、二人の女子が席に近寄ってきた。分かってるくせに、よく聞くね、なんて言ったらよけいに面倒くさいから適当に返事をすると、 「氷室先輩って、どんな人?」 なんて言いだした。知るか、自分で確かめてくればいいじゃん。苛々しはじめると、いいことがない。 質問するならお菓子か何かでも持ってきてくれたら少しはうまく答えてあげれたのに、残念だったね。 「うざい」 うすく笑みを浮かべてた唇は閉じられて、大きな目が瞬いた。どう受け取るかはあんたの自由だ。 滴り落ちる汗も、髪をかける指も、名前をよぶ唇も、何とも思ったことがなかったのに、いつから室ちんを見るとくらくらするようになったんだろう。 それが鬱陶しくて仕方がない。黄色い声をあげる女子も、それに応える室ちんも、ばかみたいだ。きゃあと声が上がる前に、室ちんが居ることに気がつくオレの方が、もっとばかなのかもしれない。今日も頑張ったな、って笑って背中を叩いてくる室ちんに、悪い気はしない。 バスケが好きでしょうがない人間なんて、うざくてしょうがないはずなのに、いつからこんなことになったんだろう。 飽きもせずに今日もボールを触って、走って、シュートをして、一日が終った。遠くの方で先輩に笑いかけてた室ちんが、オレにも「お疲れ様」って笑って言った。 何か言いながらこっちに来るけど聞こえない。耳よりも目が、集中してるのがよく分かる。最近、こんなことしてばっかだ。 「…どうした?そんな立ったままで…」 近くなってやっと声が聞こえる。顔をあげた室ちんと目が合う。 「もしかして体調でも悪いのか?…敦?」 違う、そんなことない。でも、くらくらする。眩暈じゃない。気持ち悪くもない。やめて、そんな心配そうな顔をしないで。 「敦、大丈夫か?」って室ちんの手が肩に伸びた瞬間、顔が熱くなった。掌が肩に触れた時に、じわじわと熱が肩にまで広がってきて、でも、足はふわふわした。右手で持ってたボールが転がり落ちた。 ダンッ、ダン、ダン――。 ボールはバウンドして、室ちんの視線も一瞬だけそっちに移った。 頭が、顔が、熱い。おかしい、なんでこんな風に、オレ、どうして。 足が勝手に動き出して、気付いたら体育館を出てた。足の感覚があんまりない。こんなところでこけるのなんてごめんだ。思い切り足の裏を床に叩きつけると、そりゃもうでかい音がしたけど気にしないで走った。 何人かの声が聞こえたけど、振り返りもできなかった。おかしい、おかしい、おかしい。 部室に戻って荷物を鞄にねじ込んだ。はやく、一人になりたい。追いかけられたくない。絶対、室ちんは追ってくるんだからって、思ってるのもおかしい。 どんな顔して会えばいいかわからないなんて、そんなのおかしい。毎日会ってるのに、そんなのおかしい。 タオルとか色々はみ出してるけどこの際気にしてなんかいられない。鞄を抱えて、寮の部屋に向かった。何も考えたくない。入ってすぐに鍵をしめて、ベッドにダイブして、目を閉じてみたけどじっとしていられなかった。 着替えもしなかったからTシャツは体にはりつくし、汗で布団は汚れるしで、よくないことばっかりで、イヤんなるけど、そんなこともどうでもいい。 おかしい、と思うのはやめにしないと、整理できない。でも、おかしいことなんじゃないのか、これは。オレ、男だっけ。当たり前のことをもう一回考えてみる。胸を探って、下半身を探ってみる。胸はない、下には、男にあるものが、ある。 敦、大丈夫か。言葉を思い出してみる。ううん、大丈夫じゃない。大丈夫じゃないよ。誰のせいだよ。 伸ばされた手を思い出してみると、自然と息が漏れた。心臓のところが、重い。室ちん、名前、呼ばないで。『敦』と呼ぶ声と、室ちんの顔が目を瞑ってるのに映し出されて、 目を開けた。瞼も熱くてやけそう。それどころか、 下半身にさえも熱がまわる予感がして、驚いて、頭を布団に叩きつけた。おかしい、おかしい、いや、おかしくない?オレ、欲情してんの?これはもう、そういうことって、ことじゃん。 「…まじでー」 あの指輪に嫌悪を覚えるのも、弟分ってやつに腹が立つのも、そういうことって、こと。 とりあえず深呼吸する。名前が分かれば、少し気が楽になる。もうすぐ、ノックの音がする。放っておけば壁でも破るんじゃないかって音がする。 ほら、足音が近づいてくる。この音の主が誰かなんてすぐにわかる。ノックの音がする。聞こえないふりをすると、回数が増える。 「敦!」 そんな大きな声でよんだら、他の部屋まで聞こえちゃうけど、いいの?静かにしろっていっつも注意するくせにさ。 ――ドンッ。あ、グーで殴ってる。もうだめじゃん、そんな風に叩いたら。壊れちゃうし、手は、大事なものなんでしょ。 このドアをあけたら、どうなるんだろう。怒るのか。大丈夫かって、心配してくれるのか。さっきみたいに手を伸ばすのか。 もしオレが真っ赤になっても、いつもみたいに名前を呼んで笑ってくれたらいいのになあ。 20120930 恋に落ちた |