恋に落ちた の続きです。



気付かぬ振りをすることが一番だと思っていた。上手くかわすなんてことには、慣れていた。
―――慣れていた、はずだった。



ノックをしても返事がない。居ないのか、いや、居るはずだ。始めはただの体調不良だと、思っていた。けれど、そうではない気がする。 焦る心は、正常な判断を下せない。このドアをぶち壊すぞと騒いでも敦はドアを開けなかった。
「Open the door!Talk to me!」
ドアをあけてくれ。無理なら返事でもいい。練習の後にストレッチをしていないだろう。シャワーだって浴びてない。 風邪をひくかもしれない。こんな真冬に馬鹿なことを。体を壊すなんて許さない。 Shit。呟けば、足元に影が落ちた。2メートルの男は中国語で何か言いかけて、日本語に直した。
「ドア壊れるアルよ」
「…Shat up!」
こんなときに、冷静な反応をされると、どうしていいかわからなくなる。 右の拳を壁にぶつければ、ドンと響いた音にギャラリーも増えてきた。
「…Calm down」
ああ、劉は英語が話せるんだったな。いや、Calm downなんて誰でも言えるのか。それにしたって、Calm downなんて笑わせてくれる。落ち着けるもんなら落ち着くさ。英語がでてくるのは落ち着いていないからだ。
「Is that my fault....?」
だめだ。結局自分のことを心配している。そういうのはやめようと、思ったばかりだった。ちゃんと敦にだって、言葉にして伝えたはずなのに。 敦がこの言葉の意味を解釈できるのかは知らない。日本語で話して返事がないときの方が怖い。 ドアノブに手をかけても、ドアはあかない。がちゃりと苛立たせる音が鳴るだけだ。
「…It's not your fault」
その返事はできれば敦から聞きたかった。いや、聞けたとしても、疑うかもしれない。迷惑になるから部屋に戻るアルよと襟を掴まれてドアから剥がされる。これだから背の高いやつは嫌いだ。

「何をそんなに焦るアル。アツシの行動が意味分からないなんてよくあること」
「…今日は違う気がして」
やれやれ、と劉は肩をすくめる。
「…あれから感情の起伏がわかりやすくなったアルな」
「……すまない」

別にいいアルと、劉が手の力を緩めた。何の騒ぎだ、と劉の顔見知りらしい人物が恐る恐る尋ねてきた。俺も何度か顔を見たことがあるので同学年だろう。 「あー…バスケ部の内輪揉めってやつアルよ」と言うと、様子をうかがっていた人間はぱらぱらと散って行った。
「まあ、世代交代したばっかりだし、部活やってるやつは勝手な解釈をするアル」
お前達のことなんて知らないからな。ぼそりと付け足されたことには、気付かないふりをした。 俺たちのことだなんて、俺たちも分からない。人は俺たちのことをどうみているのだろう。劉はどう思っているのか。きっと、聞けば答えてくれるだろう。 聞く気はしないけれど。
「さすが、やっぱり外から来ると人のことよく見てるもんだな」
「氷室にもいえると思うアル」
どうだろうな、と笑えば、もう何も言わないアルよと劉は手を放した。
「…来てくれて助かったよ」
「騒ぎが広まって部の責任になっても面倒だから、お前達のためじゃないアル」
体中に籠っていた熱がおさまっていく。昔からそうだ。納得がいかないことに対しては平静を保っていられない。 不安と嫉妬と憎悪がいつも胸の中にある。不安と嫉妬と憎悪の中には、繋ぎとめたいものが絡まっているから面倒だ。 切り離せないもの。大切で大切で、しょうがないもの。なんで、そんなものたちが絡み合ってしまうのか。 もっと落ち着いて、ものを考えられるようにしよう。話すのはそれからだ。敦が、今日の練習で見せた顔だって、行動だって、気にしすぎなのかもしれない。 今は落ち着くために、そう思えばいいんだ。
「部屋、戻ろうか」
そう言ったのと同時に、あれほど望んでいたドアノブが動いた。
「…そうはいかないみたいアルな」
ああ、本当に、嫌になる。恵まれた奴はタイミングも逃さないのか。

「敦、」

ドアが小さく開く。入口の高さは2メートル超えには足りず、首を屈めた敦の姿が見えた。 あれだけ騒いだ後に、何と言うのだろう。小さくあいた隙間から返答を待てば、よかったと小さな声が聞こえた。








隙間から顔をだす、というのは敦にとっては難しいようで半分以上開けた入口からは、練習のときの服装のままの体が見えた。
「…室ちん、用、あるんでしょ」
敦の目線が劉へ向くと、劉もすんなりと自分の部屋に戻って行った。ちゃんと話すアルよ、なんて、含み笑いをしながら余計なひと言まで囁いて。 入って、と言われても、足が動かなかった。あれだけ開けてほしかったドアなのに、躊躇している。
「こんなことまでしといて、今から逃げるのはなしだからね」
ほら、そうやって見透かすだろう。
「…風邪引くからいれちゃうよ」
伸ばされた腕に肩を押される。部屋に足を踏み入れれば、ばたんとドアが閉められた。がちゃりと鍵まで丁寧にかけて。 風邪ひくからって、なんだよ。自分だってそんな恰好のままで。いつものように、口が動けばいいのだけれど、うまくいかない。 緊張していると思えば思うほど、どこを見ていいのかも分からなくなる。
「んーと……手、大丈夫?すごい音したんだけど」
「ああ、大丈夫だよ」
「見せて」
「大丈夫だって、俺が悪いんだし」
「いいから見せて」
ぐいと右の手首を掴まれる。じわりと熱が伝わってきた。そのまま熱い掌が右の甲を撫でる。
「敦、やっぱり体調悪いんじゃ…」
「はぁ?」
「だって、手熱い、顔だって、」
赤いじゃないか。と言いかけたところで、敦の頬はさらに赤くなった。
「……ちげーし。っていうかさーなんなの?声も丸聞こえだし。…気付いてんのかと思ったけど、そうじゃないんだ」
気付いてんのかと思ったけど、そうじゃないんだ。ぐるぐると敦の声が頭の中でまわる。 どういうことだ。やっぱりそういうことなのか。
「まぁ、いいけど。座って」
手首を掴まれたまま、敦がベッドに腰掛ける。 ベッドに座るのは、まずい状況なんだろうか。いや、まずいと思うこと自体が誤っているのか。 普通だ。だって、俺たちはただのチームメイトなんだから。やけに近く感じる距離だって、いつものことじゃないか。

「えっと…敦、着替えたら?練習の後そのままで、風邪引くだろ」
「大丈夫」
「大丈夫って、風邪ひかれたら困るよ」
「なんで?」
「なんでって、心配するだろう」
「それって、オレとバスケができなくなるから?」
まあ、それもあるけど。人として体調を崩されたら心配するのは当たり前のことじゃないのか。 触れたくないものから逃げようとしているというのを敦は確実に気付いている。
「なんでこっちみてくんないの」
肩を掴まれて体を寄せられる。敦は俺よりも頭一つ分上の視界を持っているから、俺が俯いてしまえば、目は合わない。 けれど、アイコンタクトの国で育った俺は、本来瞳を逸らすなんてなれていない。声がすれば相手の瞳をみるし、話を聞くためにも相手の目を見る。 かわいい後輩の願いを聞くときだって、その瞳を見る。だから、震えを隠すような拗ねた声を聞けば、自然と視線が動いてしまう。
「オレ、室ちんのこと好きなんだけど」
目が合った瞬間を敦は逃さなかった。素直な言葉はいつだって俺の胸を突き刺す。
「……ありが、」
「そういう意味じゃなくて、こういうことなんだけど」

ぐるりと景色が変わって背を打った。押し倒されてると気付くのに時間はかからなかったけど、脳が状況に追いついていかない。
「ちょっと、敦、」
冗談はやめにしろ。言えるはずがない。本気だとよく分かっている。これ以上気付かないふりすれば、元にもどる修復すらできないかもしれない。 いや、もうどう転んだって、元に戻るなんて、できないかもしれない。
「…好きなんだけど」
どうして。なんで。俺じゃなくたっていいじゃないか。そもそも敦、お前ストレートじゃなかったのか。ゲイだったのか。聞きたいことも言いたいこともたくさんある。
けど、目の前の泣きそうな顔を前にして、何て言えばいいのか分からない。敦、お前はそんな瞳で、俺をみるのか。あの強くて、冷めた瞳はどこへやった。
「俺面倒だよ」
「知ってるし。…鈍いのか勘がいいのかもわかんない。バスケが絡むと面倒なのも知ってるし」
そうか。知ってるか。それは、そうか。
「ねぇ、」
どうしていいかわからなくて、手探りで、でも繋ぎとめておきたくて。そんな顔をしている。 俺は、この顔を知っている。見たことがある。
「それでも、好きだし」
「…男だぞ」
「そんなん知ってるし」
「お前も男だ」
「それがそんなに気になる?」
幼子が誰かを慕うような、そんな気持ちじゃないのか。何もかも知って、いっているのだと。敦は言った。俺が男だということも、バスケが好きだということも、とても面倒な人間だということも。
「…人と違うことなんて、関係ないし。オレがなんでそう思えるかなんて、分かるでしょ」
敦と初めて会った瞬間に、人とは違うのだということを突き付けられて生きてきたんだろうなと思った。この国ではとくにその傾向が強い。 本人はだから嫌だという思考にはならずに、周りが小さいのだと、自分に追いついていないだという思考だった。 それを酷いと思う人間もいるだろうが、そう思わなければ、生きにくいのだと俺は思う。時折刃のように心を切り裂く言葉を憎く思うこともあるけれど、仕方ないことだ。事実なのだから。

「ちゃんと、考えてくれるよね」

気にしているのは俺の方だ。たくさんの女子に声をかけれて、告白もされても、何とも思わない。 バスケが一番だからだ。泣かれることがあっても、かわいそうだ、じゃあ付き合おうなんて思わない。 心を動かされることなんて全くなかった。ああ、かわいい子だな。まじめな子かな。考えるのはそれだけのこと。 そんな風に勝手に相手のことを判断するだけ。なのに、俺は今、目の前の男にこんなにも心を揺さぶられている。 俺が欲しいものを持ってる敦は、俺が欲しいと言う。いくら振り切ったと言っても、簡単にこの思いはなくならないんだ。 心の奥底でじわりと潜む黒いもの。だいぶ溶けてきたものの、消えることはないかもしれない。 見えないふりをして、ずっと蓋をしてきた。一度溢れだしたあとは、自分も相手も認めることにした。このチームでバスケをすることで、この黒は徐々に溶けてゆくと信じて、共に前に進むことを決めた。
敦が俺を手に入れたら、満足するのだと思うと、どうしようもない気持ちになる。 言葉では表すことのできない。だって、俺が手に入らなければ、永遠に満たされることのない穴ができるのだろう。 欲しくて、欲しくて、しょうがないものが手に入らない辛さを、お前は知るのだろう。

「…なんで、俺なんだ」

振り絞った声に、敦は困惑した顔をみせた。理由がいるの。掠れた声で耳元で囁かれる。
「自分だって、こんな、顔真っ赤にしてんのに、」
理由、いるんだ。固い指が頬をなぞる仕草にさらに頬が熱くなるのが分かる。意地の悪い奴だ。敦、お前はいつから気付いてた? こんなに優しい指先を俺は知らない。超えてはならない。越えたら、きっと辛くなる。けど、本当はおれだって。今なら、手を伸ばせば容易く届いてしまう敦が、欲しいよ。


20121122 恋に落ちる