体に違和感を感じたのは今朝がたのことである。 違うだろうと思いながら一日を終え、放課後の練習の真っ最中にやはり変だと気付いた。 でも違う。気付いてはいけない。氷室に練習中に気に掛けられたが何でもないと返事をした。 違和感に気を取られると集中もできなくなる。何も気にしなければいいのだと、休憩中にスポーツドリンクを飲みながら言い聞かせた。 休憩終了後に行われたミニゲームでは、いつも以上に独擅場となったが、プレーは荒いと忠告された。終わるころには、全ての体力を持っていかれたようだった。 僅かに判断を下せるほどの余裕は残っていたので、氷室が荒木に呼ばれている間に引きずるようにして寮に戻った。 ミニゲームの終了後も氷室が自分のことを見ていたのを紫原は知っていた。あれは何かに気付いている顔で、聞き出そうとしている。 面倒になことになる前にと、体育館から抜け出して、焦がれていた部屋に着けばすぐにベッドにもぐりこんだ。 いつもなら、空腹に耐えかねて、食堂へと向かうけれど、体が動かない。 こんなに自分の体は重かったのだろうか。あんなに軽く駆け抜けることができるこの体が?

感違いだろう、そうじゃないと―――。
軋むスプリングに吸いこまれるように意識が途切れた。

じわじわと持ち始めた熱、異変を訴える筋肉。やだ、絶対、やだ。痛いのは嫌い。睡眠と現実の狭間の脳が喚いている。 とうとう見て見ぬふりができなくなった。 痛い。引き裂かれそうな痛み。この痛みはよく知ってる。何度も繰り返してきたこの痛みを。 苛立ちも余計に体力を消費するだけだから、考えないのがいい。 嫌だ、怖い、痛い、眠れない。大嫌いなものなのに、こればっかりは捻り潰すことなんてできない。

頭が割れるような痛みとともに、喉が渇いていることにも気付いた。 起きたくもないし、体を動かしたくもないが、脱水症状で死ぬなんてことは勘弁しておきたい。 鞄の中には、昼間に買ったお茶が入っているはずだ。手に届く範囲に鞄があればいいな、と思いながら瞼をあけた。
「…なんでいんの?」
視界に入ったのは天井ではなく、見慣れた顔だった。点けたままの電気が消えていて、漆黒の髪を揺らして、氷室は紫原の顔を覗き込んだ。
「うなされてたから」
氷室と紫原は同室ではない。お互いの部屋には出入りすることも多いので、氷室は自分の部屋に溶け込んでいるようにみえるが、驚きは隠せない。 なにそれ、よくわかんない。おれがうなされてたら、あんた気付いてすっ飛んでくるわけ。 痛みと熱さのせいで、混乱する頭を余計に混乱させないでほしいと思うけれど、口にできるほど力が出ない。 自分でも心の萎み具合にびっくりする。
「ねぇ、オレ、もうだめかも」
紫原がそう言えば、氷室はひどく驚いた様子で、英語を話し始めた。たぶん信じられないだとか、そういう類のことを言っているのだろう。 早口すぎて何を言っているのか分からないし、そもそも紫原は氷室の流暢な英語を聞きとれるほどの能力はない。
「あのさ、なにいってもいーから、にほんごではなして」
ただでさえ自分がよくわからない状態にあるから、英語なんて話されたら氷室が余計遠くに感じる。
「ごめん。敦が弱気なの珍しいなって思って」
「だって、体痛い…せーちょーつうとか、もう、やだ」
一番恐れていたものの言葉を口にしたら、もっと体が痛くなる気がした。 この大きな身長と引き換えに、幼いころから痛みを重ねてきた。高校に入学してからは、久しくその痛みも感じていないので、 心地い眠りにつくことができた。身長が伸びることはどうってことないが、あの眠れない夜と痛みがやってくると思うと、嫌でしょうがない。
「大丈夫だよ」
氷室が紫原の髪を撫でた。大丈夫、大丈夫だよと囁かれる声は心地よいけれど、正直大丈夫だなんて思えないのが本音である。
「だいじょうぶじゃねーし」
声もかすれてきた。弱気になると声も掠れるのだろうか。自分の体が自分のもののようではない気がして、不安は増すばかりである。 気付かれまいと努力してきたことも、隠す必要がないと分かれば、「いたい、いたい」と口からこぼれ出てしまう。
「敦、聞いて」
ぴたりと額にあてられた手のひらの冷たさに身震いする。自分が熱いのか氷室の手が冷たすぎるのか分からない。
「たぶん、風邪だよ」
紫原の額にあてていた手のひらを自分の額にあてて、氷室が言った。一晩寝て、薬も飲んでからじゃないとは分からないけど、と付け加えたが、おそらく風邪だという。
「…へ?」
かぜ。そういえば久しく風邪なんてひいていない。じゃあこの体の節々が痛むのも、成長痛ではなくて風邪のせいなのか。 もう何が何だかわからない。
「今日見てて、変だなとは思ってたんだ。もっと早く気付いて休ませればよかった」
氷室が悪いわけではないのに、心底申し訳なさそうな顔をして謝られる。ごめんな、しんどかっただろと、冷たい手に頬を包まれる。 どうしてこの人はこういう人なんだろう。人が弱くなれば、べたべたと甘やかす。 紫原は氷室という人間のことをよく知っているつもりだ。知っているけれども、彼の振舞い方に、いつも振り回される。 愛でもないし恋でもない。誰かを大事にして、自分をたもってるのではないか。大事にした分、自分に何かが返ってくるのではないか。 もし氷室がそんな思いで、自分を構っているのだとしたら紫原はお手上げだと思う。自分が彼にあげたいものは、彼は決して受け取らない。
「…かぜでも、いたいよ」
あちこちいたい。頭も腕も脚も。
「どこがいたい?」
「ぜんぶ」
実は一番痛いところはあるけれど、言わなかった。全部かあ、と氷室は苦笑した。その後に、くしゃみをひとつ。顔に似合わず豪快なくしゃみに笑いそうになったが、こんな暑いのにくしゃみ?紫原は一瞬考えたが、慌てて腕を伸ばした。 ベッド横に膝を立ててこちらを見ていた氷室の体が大きく揺れる。冷え切った布の感触に驚く。あまりの冷たさに、ぼんやりとしていた脳味噌まで覚醒しはじめた。
「わ、寝てなきゃだめだろ」
「いまって、何時なの」
「え?…たぶん夜中だけど。時間は分からないや」
紫原の言いたいことをくみ取ろうとして、氷室は、食事も入浴も終えたし心配ないよと言った。 それを聞いてやっぱりこの人はずれていると思う。真冬の夜中に、上着も着ずに部屋にいるとはどういうことなのだと紫原は言いたい。

「…いつからいたの?」
「日付が変わる前くらいだよ。だからそんなに長くないと思うけど」
氷室の話によると、寮に帰ってきてすぐに紫原の部屋に向かったという。ベッドに突っ伏している紫原の様子を見て、風邪だと判断したらしい。 暖房はつけなかったのかと問えば、敦が熱そうなのにこれ以上部屋を暑くするのはだめかなと思って、と言いのけた。
「ばかなの」
ぽつりと漏れた言葉に悪意はなかった。
ばかなの、なんなの、どうしてそういうことをするの。 静かな部屋にはひゅうひゅうという自分の呼吸の音が聞こえた。確かにこれは風邪の症状だと、昔風邪をひいたときのことを思い出した。

「だって、起きた時に誰かいたら、安心するだろ?」

風邪のときは心も弱るって言うしな。肩におかれた手を氷室が宥めるように撫でた。
「風邪ひくかもよ。ってか、うつるんじゃねーの」
「ウィルスなんか殺してやるさ」
殺すだなんて物騒だ。紫原も口は悪いが氷室も相当口が悪い。綺麗な顔をして、腹が立った時は的確に相手が傷つくポイントを突く。 そんなところが一緒にいて楽だった。彼を好きになった理由の一つかもしれない。 氷室は風邪をひいてもいいと思っている。自分に気を使わせないためにいってるのかもしれないが、せっかくなのでとことん甘えてみるのも悪くはない。
「…じゃあ、寂しいから、もっと近く来て」
「…もっとって?」
「一緒に寝よ」
ほんとうは、こわかったから、いっしょにねよう。普段の喋り方と、熱のせいで拙さが加われば、本当に不安になった子どものようだった。 言葉とは反対に、こうなったらどうにでもなれという思いも込めているけれど、おそらく氷室は気付かない。
「……いいよ」
めくられた布団からはひやりと冷たい空気が入り込んだ。心地よいと思ったけれど、そのあと入り込んできた氷室の体の冷たさに震えてしまった。
「やっぱり、俺居ない方がいいんじゃないか」
今さらそんなことを。抜け出ようとした氷室の体をがっちりと抱えこんで、そのまま何も言えぬように、氷室の顔面を自分の首元に押し付けた。
「冷たくてきもちーからいい」
「ならいいけど」
こっちがただの甘えだという態度をみせれば、氷室はこんなにも無防備だ。抱え込まれたまま「敦の匂いがする」なんて言う。 風邪でよかった。体が重くてよかった。紫原は痛みに初めて感謝した。じくじくとまだ体中に痛みは這いまわるけれど、氷室の冷たさが心地いい。 徐々に冷えていた体が熱を帯びていっても心地よさは変わらなかった。このまま眠りにつければ、体も少しは軽くなるかもしれない。 瞼を閉じて、じっとしてみる。聞こえるのは二人分の呼吸と心臓の音だ。耳があらゆる音に反応してしまえば、夜が長くなる合図だ。 このまま朝を迎えたらどうしようと大きく呼吸すると氷室が首を上げた。
「敦、眠れない?」
うーん、と唸って紫原は天井を見つめた。眠れない理由はなんだろう。たぶん、寝すぎたから、だ。
「…けっこー寝たし、体痛いし」
「そうか…心配だな」
トントントン、と一定のリズムで背中が叩かれる。そこまで子どもじゃないのにと思ったが、痛みに構えていた体の力が抜けていくのが分かった。 何もかもがぬるま湯につかってるみたいで、心地よくて、こんな気持ち知りたくなかったと思った。でも知ってよかったとも思った。氷室と思って出会うのはそんなことばかりだ。 知りたくなかったけれど、知ってしまった。氷室から発せられる言葉も、体温も、まるで、知らなければいけなかったことのようだった。 緩々と瞼が再び下りると、ふ、と息の漏れる音が聞こえた。顔を見なくても分かる。氷室が笑っている。
「Let me kiss it and make it go away」
かさついた唇が触れた。触れたのは、紫原の唇の横で、氷室が体を少し動かせば届く距離だった。 囁かれたのは綺麗な英語で、意味がわからなくても、なんだか胸がしめつけられる。
「はやくなおりますようにって」
たぶん、おまじないかなんかだろう。紫原は、おまじないというより毒のようだと思った。この人は本当は自分の毒で、オレを殺したいんじゃないのか。 それくらいじゃ、オレは死なないけど。
すうすうと寝息を先にたてたのは氷室だった。ひとりじゃない夜だと思えば、つられて眠れそうな気がする。 聞こえるのは先ほどと変わらない、呼吸の音と心臓の音。まるで、二人だけで生きているみたいだった。


20130110 瞬く夜はふたりきり