不動産




室ちんはもう居ない。大会にだって見に来てくれるかどうかさえ分からない。 バスケで勝つことが当たり前ではなくなった日のことは、忘れっぽいオレでもすぐに思い出せる。 思い出して、胃が焼けるように熱くって、呻きたくなるような、気持ち悪い感覚。
勝たなきゃ。勝たなきゃ。勝たなきゃ。
繰り返すそればかり。別に誰かに言われたわけじゃない。頭にこびりついてはなれない。 負けるのは嫌だ。だから練習しなきゃいけない。したくもないのに、練習しなきゃいけない。

「紫原、今日は休め」

華奢ではないけれど男よりも遥かに細い腕に押された。嫌だと言った。嫌だ、絶対に、嫌だ。
「私は、お前の監督だぞ」
オレは自分の体が重いってのも分かってるし、押されてもびくともしない。びくともしないオレに苛立ったのか知らないけど、雅子ちんは足で床を思い切り踏んだ。 威嚇している。動物じゃあるまいし。 大きな音がなって、周りの部員も一斉にこっちを向く。
「嫌だって言ってんじゃん。練習してんだからいーでしょ」
「紫原、それ以上言うなら、竹刀で叩くぞ」
どこをとは言わなかったのに、反射的に右足を下げてしまった。慌てるも、もう遅い。











「いつからだよ?」

危うくロッカーを蹴りそうなところで、見慣れた顔がやってきた。話かけてきたのは、去年からレギュラー入りしてるやつだった。 仲良くはないけど話しはするし、嫌いじゃない。たまにお菓子もくれるので、気が向けばお返しもする。

「なに、誰かに頼まれたの?」
「ちげーよ。心配してんだよ、分かれよな」

忘れものだとぶん投げられたスポーツタオルが顔に当たった。怪我人だと分かってるのに労わる気はないらしい。 物言いがはっきりしてるから、付き合いやすいなとは思う。
「分かんない。一昨日くらい?」
一昨日の練習終わりに鈍い痛みを感じた。幸い次の日がオフだったので、寝れば治るだろうと思っていたけれど、治っていなかったらしい。 ミニゲームが始まり一歩踏み出した時に、心臓がひやりとした。
「…それ気付いたときにすぐ言えよな。自己管理甘ぇよ」
「あー。似てたんだよね、成長痛と」
お前まだ成長するのかよと驚きを隠すことなく表情に出すのがおもしろい。いつもならいらっとするところだけど、あまりにも変な顔するから許してあげることにする。
「最近おさまってたからさぁ、どうかなぁと思ってたんだけど」
嘘だ。痛みの違いくらい分かるし、信じたくなかっただけだ。ギリギリと痛む骨と、悲鳴をあげはじめた筋肉の声をちゃんと聞いていた。
「…痛いもんはどうしようもないから、早く治せよな」
「じゃーお菓子買っといて」
「……覚えてたらな」
練習に戻ろうとする背中を見ていたら、急に振り返られて目があった。
「連絡が2つだ」
「えー…なに?」
冗談を言っていた顔から一変してまじめな顔だった。オレもこんな顔をできるようになったのかは、分からない。
「1つめ、主将大丈夫ですかって、下のやつら心配してっから」
「……あー、うん。ごめん」
主将と言われるのは未だに慣れない。オレの中の主将はあのゴリラみたいな先輩だった。 室ちんが主将と言われるようになっても、全然実感がわかなかった。そしてまさか、自分が主将と呼ばれるようになるとは。
「心配すんなって言ってあるし、元気になってほしかったら菓子やっとけって言っといたよ。お前が居ない間はオレが何とかするし」
「それって、普段と変わんないじゃん」
まじめな顔を崩して笑った。こいつとよく話すようになったのは、主将と副主将の関係になったのも理由の一つかもしれない。 監督からの連絡、指示、後輩の面倒なんて副主将にまかせっきりだ。切れ長の目が福井サンに似ている。 主将といえば赤ちんで、副主将といえばミドちんだったのに、いつの間にかどんどん上書きされている。
「…ありがと」
「2つめ、監督がもうすぐ来るからここで待機してろ、だってさ」
「げー」
「当たり前だろ。エースの故障だなんて一大事だろ。病院いってさっさと治せ」
背中が消えると同時に、雅子ちんが大きな足音を鳴らしてやってきた。怒鳴られるかと思ったけど、早く来いと言われただけだった。

窮屈な待合室の中で、待つのはとても久しぶりのことだった。 病院は嫌いだ。風邪もめったにひかないし、ひいても自力で治していた。 5分おきくらいに雅子ちんが小声で話しかけてくる。最近の練習のこと、後輩のこと、インターハイのこと。 一番触れられそうで、触れない話題があることは、お互い気付いていたと思う。名前が呼ばれ、診察室に入る。 雅子ちんと医者は顔見知りのようで、お久しぶりですと会釈していた。聞かれたことにだけ答えて、時間が過ぎるのを待った。 病院にいるのは自分じゃないみたいだ。人ごとのように医者の言うことを聞いていた。
「――紫原」
「…へ?」
「帰るぞ」
剥き出しにされた右ひざにはぐるぐるとテーピングがされていた。ああ、本当に膝、ダメなんだ。黙ったまま診察室を出て、もう一度待合室で名前が呼ばれるのを待つ。 待ち時間の間に雅子ちんがもう一度説明をしてくれた。
「人生が終わったような顔をするな」
「してねーし」
「トイレいってその面みてこい」
「…いい」
「…私からもう一度説明しておくぞ。靱帯が炎症を起こしていて、その炎症から痛みがきている。お前の状態は第一段階。対処としてこれからはストレッチを今まで以上に念入りにして、筋肉を柔らかくする。 病院にも定期的に通う」
「それって、」
「だから今後のケアが重要だ。私もお前のサポートは徹底する」
弱気になるな。大丈夫だ。ぱん、と背中を叩かれて背筋を伸ばす。背を伸ばしてしまえば、雅子ちんはもっと小さくなってしまうのに、何故だかとても大きくみえた。 この感じは、高校に入って何度か他の人にも感じたことがある。

真っ赤な車の助手席に座ると、すぐに車は走り出した。ぱたぱたと雨が降り出した。梅雨だな、と雅子ちんが舌打ちをする。

「悪かったな、早く気がつけばよかったんだが」
「雅子ちんが謝ることじゃないけど」
「…なら早く言え。次からは許さないぞ」
「あー…。ごめんなさい」
「…下のやつらを不安がらせるな。お前は大事なうちのエースだ」
「うん」
「はい、だ。馬鹿」
今年から、陽泉はもうWエースじゃない。室ちんが居た頃に比べてプレースタイルを大きく変える必要があった。 Wエースが終わりを迎えたのはもう半年前で、室ちんが居なくなって3カ月がたった。会うこともなければ、連絡することもない。

車から降りる前に、雅子ちんは大事に至らなくてよかったなって頭を撫でた。 思っていたよりも、この監督はオレのことを大切にしてくれているらしい。 三年になってから、オレを気にかけたり注意したりする人はいなくなった。 同じ学年のやつらとはそこそこ話すけど、深い仲でもない。 劉ちんが引退する前に心配してたらしいけど、その時はまあなんとかなるだろうと思っていた。 でも、オレはオレに鈍くなっていた。絶対室ちんのせいだ。それほどまでに、室ちんはオレのことを見てたし、色んなことを言ってきた。 やっぱりこういう気持ちを寂しいっていうのだろうか。いや、腹立たしいかもしれない。
寮の近くに車が停められる。もうじき夕食の時間だ。窮屈な車から降りて、体を伸ばす。
「…弱気になるなと言ったが、辛いことは言えるなら、言えばいい。私でも、」
―――お前が言いたいと思う人にでも。
車から降りてしまえば、運転席から顔を出した雅子ちんの声は少し遠くなる。聞こえないふりをして、頭を下げた。寮へと歩き出せば、後ろから「よく食べて寝ろよ」と叫ぶ声が聞こえた。
辛いとか、ださいじゃん。しんどいとか、かっこわるいじゃん。そう思うならやめたらいいじゃん。
やめれなくなったのは、誰のせい?

夕食を食べて、風呂を済ませた。風呂から帰ってきたあと、ドアノブにはコンビニの袋がかかっていて、まいう棒がちらりと見えた。 袋をとってのぞいてみたら、ルーズリーフの切れ端に"これ食って寝ろ"とだけ書いてあった。 必要以上に心配されることがないのも、楽だ。きっと気を遣われている。
ドアノブを捻ると、誰もいない。当たり前だけれど、一々何とも言えない気持ちがわきあがるのはなぜだろう。
何もすることがない時間が、嫌いになった。
もう室ちんの部屋に行くこともない。くだらない話をすることもない。甘えることもない。 嫌になるくらいバスケの話をすることもない。
敦の今日のプレーはさ、と毎日お決まりのように言う。あの時の動きが、あの時のパスが―――。
色々話してくれたってオレには分からない。考えずに動くことの方が、きっと多かった。

『じゃあ、どういう状況だったか教えてやるよ。』
相手の動きから、その動きに対するオレの反応まで。
頑張らないと、練習しないと。止まってしまえば、自分の限界を認めることになる。
こんな中で、室ちんはずっと生きていたかと思うと吐き気がする。馬鹿にするなと彼は憤るかもしれない。 馬鹿になんかしてない。もう無駄だなんて思わない。凄いと思うよ。そう思うのは、室ちんだけだけど。 だって、他のやつらは大体どっかで甘んじてるんだ。自分には無理かもしんないって。そんなやつらには今でも思う。 無駄だからやめちゃえばって。
室ちんは違ったから。ずぅっとずぅっと信じていた。涙と同じ味がするしょっぱい海の中で、手を伸ばして、きらきら太陽が反射する水面を見ながら、呼吸を手に入れることを待っている。
そして、オレはというと――――。
海の底に突き落とされた気分だ。
1週間待てば、練習には戻れるという。これからは今まで以上に自分の体に注意を払うこと。 この体である以上、故障とは無縁でいられないということ。
もしも、バスケができなくなったら、オレはどうするんだろう。
卒業式の前、『敦はもう大丈夫だよ』と言われた。よく意味が分からなかった。室ちんと別れても大丈夫だってことなのか、チームメイトとやっていけるってことなのか。 確かに、チームメイトとはそこそこうまくやっていけた。主将という役割も、渋々引き受けたが、全うしようと努力している。 それでも、足りない。
こわいよ、しんどいよ、つらいよ。
こんなことは、誰にも言えない。



むろちんへ
元気ですか。オレは、元気じゃないです。 ひざをいためました。こしょうってほどでもないけど、やっぱり、ちょっとこわい。 1週間は安静にだって。こんなこと今までになかったから、びっくりした。 ラッキーって思わなかったんだよね。バスケできなくなるんだと思った。むろちんに会いたいって思った。 なんでかはわかんないけど。
むろちん、今何してんの?オレのことはもう忘れた? オレは忘れてないよ。忘れるには3カ月は短すぎるし。やっぱり、連絡もなしっていうのは、

むろちんへ
元気ですか。オレは、元気じゃないです ひざをいためました。でも、大丈夫らしいです。 1週間は安静にだって。こんなこと今までになかったから、びっくりした。 ラッキーって思わなかったんだよね。バスケできなくなるんだと思った。むろちんに会いたいって思った。 こんなん書くのは恥ずかしいけど、やっぱりこのままはいやだよ。 むろちん、今何してんの?オレのことはもう

むろちんへ
元気ですか。 オレは、ひざをいためました。でも、大丈夫らしいです。 1週間は安静にだって。こんなこと今までになかったから、びっくりした。 ラッキーって思わなかったんだよね。バスケできなくなるんだと思った。むろちんに会いたいって思った。 むろちん、今何してんの?会いたいよ。


書けば楽になるかもと思って、宛先のない手紙を書き出したものの、終わりまで書くことができなかった。 何枚も何枚も書いてはぐしゃぐしゃに丸めた。100枚入りのルーズリーフを有難いと思った。 かしこまった文章は苦手だ。できることなら本人を目の前にして言ってやりたい。 勝手に連絡先も変えて、居場所も教えないで、自分勝手すぎるでしょう。 オレはまだあんたのことが好きだけど、あんたはどう思ってんの。 すぐ忘れるって言ったけど、忘れられなくて、それどころか思い出してばっかりで、馬鹿みたいなんだけど。
好きって何回言えば分かってくれるの。オレがどうなれば、また一緒に居てくれるの。 大人になればいいって、分かってるけど、しんどいことばっかりで、嫌だよ。待とうって勝手に決めて、頑張ろうとするなんて、オレ、本当に馬鹿だし。
丸めた紙の山を見て、自己嫌悪は増すばかり。室ちんに手紙を渡していた女の子たちは、すごい。オレには自分の思いを全て手紙に託すなんてことできない。



むろちんへ
しんどいです。こわいです。でも、負けたくないし、がんばろーと思います。
元気ですか。ちゃんとご飯は食べてますか。
会いたいです。
まだ好きだよ。忘れられないよ。

むろちんへ
泣きそうだから、一緒に泣いてくんない?

いつかそんな約束しなかったっけ。隣にいなかったら、オレのこと、分かんないじゃん。馬鹿だね。
最後に書いた1枚だけ、四角く折りたたんで引き出しにいれた。他の丸めた紙は、まいう棒が入っていたコンビニ袋の中に突っ込んだ。
泣きそうだから、一緒に泣いてくんない?
読み返すと情けなさすぎて、気持ち悪い。最後に書いた1枚だけ、四角く折りたたんで引き出しにいれた。 コンビニの袋に入っていたルーズリーフの切れ端もいれておいた。他の丸めた紙は、まいう棒が入っていたコンビニ袋の中に突っ込んだ。

この返事が来るまでは、泣かないでいよう。明日から、ちゃんとストレッチをして、後輩にいつも通り菓子をねだって。弱気にならないでいよう。





あの日から手紙を書くことが日課になった。手紙というより、日記の方がふさわしいかもしれない。 しんどい。つかれた。もういやだ。あしいたい。今日は調子が良い。長くは書けなくて、短いものばかりが日々重なっていく。 たまに我慢できなくて、何枚も書いては丸めての作業を繰り返すこともあった。引き出しの中にはルーズリーフの切れ端がどんどんたまっていく。 増えれば増えるほど、会いたくなった。誰かに連絡先を聞けば、連絡をとれたかもしれない。でも、それをするわけにはいかない。 しんどくて、嫌になって、吐きたくなったり、捻り潰したくなったりすることもある。
それでも、たまにドアノブにかけられるコンビニの袋や、懐かしい人からのメールで、明日を過ごそうと思える。



インターハイが終わったと思ったら、夏も思わっていた。葉書が一枚届いた。四季から秋が抜け落ちたと思うくらい、冷たい風が吹き始めた。 紫原敦様といびつな字で書かれているのをみて、漢字は面倒だと嘆いていたことを思い出した。
すぐに裏面を見ると、真っ青な海の写真で笑ってしまった。そのうえにボールペンで書かれている字は少し見難くい。
頑張ってるな。オレも頑張るよ。
その下に、体壊さないように祈ってると小さく書かれていた。



むろちんへ

久々に宛名を書いた。

むろちんへ
インターハイが終わった。はがきの文からじゃ見に来てたのかは知らないけど、 オレ頑張ったと思う。負けたくなかったし。
まさこちんはよくやったって言ってたし。
後ハイは応援してくれたし。
3年とは春よりかはうまくやっていけてる気がするし。
むろちんが言ってた大丈夫って、こういうことなの?
こういうの最近は当たり前だと思ってたけど、前はそうじゃなかったんだよね。
むろちんとバスケをして気づいたことはたくさんありました。
いやだとか、ばかみたいとか思うことばっかりでした。
好きとかはいまだによくわかんないけど、まだバスケをしています。
大事にしたいものも増えた気がします。大事にしたいっておおげさかもしれないけど、 けっこう、いまのチームはきらいじゃないかも。
話したいことがたくさんあるんだけど、住所は書いてくれないし。 まじ自分勝手ってやつだよ。
むろちんがいなくても、うまくやっていけるけど、オレはむろちんに やっぱり見ててほしかったと思うし、むろちんのことも見てたいって思う。
むろちんバカだからいっとくけど、じゃないや、書いとくけど、 留年してほしかったって意味じゃないからね。 連絡先くらい教えてくれたっていいじゃん。電話とかメールくらいしてもいいじゃん。 卒業したら、絶対会うから時間かかっても、絶対会うから。


引き出しを引くときに紙がひっかかるようになった。 久しぶりにまともに書いた手紙は、いつものように引き出しにいれた。 ルーズリーフの切れ端、ユニフォーム姿がうつった写真。綺麗に整頓はできなくて、ごちゃごちゃにいれてある。 その上に、さっきの手紙と葉書をのせた。真っ青な海がまぶしい。ありがとう、さみしい、ありがとう。何度か心の中で言って、引き出しを閉める。 積み重なった紙の山を渡すかどうかは、もう少し先の自分に決めてもらおう。

まだ大人は遠い気がする。このままいくつ年を重ねても大人になったなんて言えないかもしれない。 くだらない話しかできないし、相変わらずお菓子は大好きだ。泣きたくなることもあるし、腹立たしくてものにあたることもある。
ねぇ、室ちん。次会うとき、子どもみたいだって馬鹿にしてもかまわないよ。そうしたら、一緒にいたときの気持ちと同じままだって言えるから。 あ、でもね、我慢は少しできるようになって、周りも少しはみれるようになったから、許してね。



もらったものと書いたものを分けて、今まで書いたルーズリーフをかき集めた。 大きいものは半分に折りたたんだ。全部重ねてみたら思っていたよりも厚みがあったけど、片手で握りしめることができた。目の前に居る室ちんは少し大人っぽくなっていて、笑っていた。 差し出された手のひらに紙を押しつけたらばらばらと落ちていった。ごめんな、敦。ちゃんと見てたかったな。室ちんが言う。とても落ち着いた声でいうから、オレだけ置いてけぼりみたいな気がして、ツンとした鼻を気にしないために息を吸った。 これだけ考えてるのはオレだけで、室ちんはオレのことなんか忘れちゃってて、こんな紙なんか受け取りきれなくて―――。
落ちた紙を必死で拾い集めようとして屈むと、室ちんも、一緒に屈んで、唇が動く。
「ごめんな、あつし。ありがとう。まってて」
ごうごうと雪が降って寒いと身を寄せ合ったときみたいに、目の前が真っ白になった。
ときどき、こんな夢を見る。寝起きで鏡をみたら、ひどい顔に驚く。終わりにしようって言ったくせに。忘れるなとくりかえし言われている気がした。 忘れないよ、大丈夫だよ、待つよ。だから、待っててね。




20130211 春を待つ