暗闇の恋人 2

大げさに言えば駆け落ちみたいなもので(ただし一夜限定の)、それほどまで俺は侵されていて、それでいいと思った。 誰のかわからない自転車の後ろに乗っけて、勢いで出てきた。 からからとタイヤが回る音と耳を塞ぎたくなるブレーキの音。それ以外に聞こえるのは男女の交わす会話の欠片や派手な化粧をした女の笑い声、 酔っ払った男が道端でぶっ倒れている。江戸の夜は案外静かなものだった。 誰も知らない誰も言わない気づかない。例えばこれが陽が降り注ぐ時間だったら。土方や旦那の怒声が飛び交う事だろう。 この時は誰にも知られることがなく終っていく。(なんで、)こんな方法でしか許されなくて(どうして、)できることならもっと明るい場所で。 (俺にはこの先もずっと、こんな形でしか護れなくて、気づけなくて、朝を迎えることは出来なくて) 古い自転車のタイヤの空気はあまり入っていなくてこぐのが重い。息がきれてきた俺を見かねて彼女が「漕ぎたい!」と騒いで足をばたつかせる。
「ちょ、揺らすな!」
「だって、暇ヨ」
おまえはなにも喋らないし、真っ暗だし、それにちょっと眠いし、と愚痴をこぼして欠伸をされた。
「おい、こっちは必死で漕いでるんでさァ、寝たりして涎でもつけたら叩き起こすぜィ」
くすくす、と笑い声がきこえる。ゆらゆらと揺れて生暖かい風が吹いた。
「暗いのは、やっぱり嫌ネ」
しばらくして、ひとりごとのように言われた言葉が、痛かった。でも明るい場所も、許されはしないのに。
「…けど、あんたは夜が明ければ俺のところになんて来ないじゃねーか」
お互いに帰るべき場所に帰って、誰にも話すことなくまた日常を迎えて、眠りにつく。何十何百何千回と眠りを繰り返せばたった一夜のことなんて夢の中に埋もれてしまうのだ。 夢だったと済ませることさえできるのだから。
「おまえだって、きっと私のところになんか来ないヨ」
笑って言うものだから何もいえなかった。思えば彼女が俺に対してこんなこと、言ったことがなかった。 (俺ひとりが突っ走って、でも届かないと勝手に思って空回りをしてたまに嘆いて、でも彼女は何も言わなかった)(俺が勝手に全てを思い込んでいた)
「私に大切なひとたちが居るように、おまえにだって、」
急な坂にさしかかったけれど。ブレーキを握る事ができなかった。背中に顔を押し付けられてくぐもった声が聞こえたけれど、息ができなくて言い返せない。 海はもう目の前にみえていた。


(大切なひとたちがいるでしょう?私だって、その人たちに敵わないのヨ)