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神楽ちゃん帰ろうよ。その誘いを断って私は教室に残っていた。もう少しだけいたいと言えば彼女達は少し赤くなった目を細めて、手のひらを振った。思えば、神楽ちゃん帰ろうよなんていうのもあれが最後だったかもしれない。 いつもなら聞こえてくるはずの吹奏楽部のメロディー。グラウンドを走っている野球部の声。 廊下で誰かが喋る会話。それがなくなる日なんて、なかったのに。 教室の中一人でうずくまって、いろいろなことを思い出しても、あの日に帰ることなんてできないし、 (それに、例えネコ型ロボットが居ても私は頼まない) この教室の時計が動いていくのと一緒に私がここで笑ったり、ふざけたりして時を過ごす事も出来ない。 当たり前のように卒業し、校舎を出ていく。生きていた中で一番濃い年間だったと思う。日本に初めてやってきた日のこと、初めて友達と会話をした日のこと、球技大会、文化祭、体育祭、思い返せば、たくさんのことがある。 そろそろ鼻が痛くなってきた。首を振って、顔を上げると、扉が乱暴に開いて、肩が震えた。そのまま勢いよく入ってきて椅子も乱暴に引いて座る。動作が一々荒い。 ガタガタゴトン。こっちが、センチメンタルな気分に浸っているっていうのに、こいつはいつもと全く変わらない。 「またびいびい泣いてるのかよ、女子泣きすぎなんじゃねェ?」 「しょうがないアル、皆雰囲気にやられたのヨ」 雰囲気ねェと沖田が理解できないと言いたげに首を傾けて、また騒音を出し始める。ガタガタガタ。 「…それより何してんのヨ」 「卒業式終った後坂田に呼び出されて机の落書きとロッカーの教科書何とかしろって言われたんでさァ。そんで、お前こそ何してんでィ。皆帰っちまったろィ」 沖田は机を思い切り消しゴムでこすりながら言う。この落書きたちは卒業数日前の登校日に沖田がかいていたものだ。 確か式の予行かなんかで、教室待機の時に。試験がなくなって、私たちが机の上で文字を書くということをしなくなった頃だった。いきなり沖田が 「マッキー持ってねェ?」と私の方を向いて言った。「マッキー?」「ペンでさァ、黒の油性のやつ」「持ってないヨ」「役に立たねェなァ。誰か持ってねェ?」という会話が続いて 少し離れた席に居た新八が(私たちの声は大きいのでよくクラス中に聞こえていた)「はいはいあるよー」と黒いペンを投げた。ふぅん、これがマッキーか、と私がそれを眺めると沖田は「サンキュー」と言ってキャップをあけた。 きゅっきゅっと音がなって沖田が好きなように机に文字を書いていく。3年Z組卒業、おきたそうご、銀ぱちの天パやろー等など。 マッキーを貸した新八が近くに来て「ちょ、何やってんのォォォ」と叫びを上げた。けれど段々面白くなってきて皆で好きなように書いた。鉛筆も、赤のボールペンも黒のボールペンも参戦しだした。 将来俺は志村妙と結婚します、ここに誓います!と荒々しく書かれたその横に矢印があって、死んでしまえと丁寧な字で書いてある。 ズラじゃない桂だと達筆で書かれたその横には十年後はハゲにヅラ、と書かれていたりやりたい放題だ。 数十分後に体育館への移動を連絡しに来た先生が「ばっか!お前!これ次の学年に受け渡すんだからな!あーあーもう最後まで余計なことすんなァ、おい」 なんて言ってももう手遅れだった。結局その机の文字が消えることはなくて(正確には消すのが惜しくて)、今日までこのままだった。 「おい、無視かよ」 ぺしっと頭を叩かれて消しカスがバラバラと降ってくる。相変わらず子供じみた嫌がらせだ。 「ああ、ごめん。思い出に浸っていたアル」 「ふーん。でも虚しいよなァ。何だかんだ受験残ってる奴は卒業なんてそれどころじゃなかっただろうしよォ。 それに卒業したところで俺達は何者になるんだってんでィ。 はい、明日から高校生じゃありませんなんて、そんな薄っぺらい肩書きで三年も過ごしてたんでさァ、俺たち」 正確には私たちは三月三十一日まではこの学校に在籍しているのでまだ高校生らしい。卒業証書までもらっているのに、在籍しているのだ。正直卒業した実感はあまりないけど、そんなこと言われてももう高校生ではない気がする。 「それにしてもよく喋るネ」 「まァそういう気分なんでさァ。それよりやっぱ消しゴムじゃ消えねーや。小学校の頃はこれで結構いいとこまで消えたんでィ。でもさすがにこれは無理みてーだ」 見ろよこれと沖田が机を指差す。 「なんかすごいことになってるヨ…悲惨」 「お前持って帰れば。日本の思い出」 「えー…持って帰るには重たいし見たらきっと泣いちゃうアル。それに私まだ残るヨ」 私は四月から一応進学という事になっている。理由はこっちのほうが居心地がいいからという単純なものだ。 最後の面談の時、大人になるのが怖いという話をした。大人になるのが怖いよ、皆離れちゃうから。広い世界へ行くことが嫌なわけじゃない、ただこの小さい世界が愛しくて愛しくてしょうがなかった私には、ここから離れるなんて想像がつかなかった。それは、今もだけれど。 「あぁそうだっけ、でももうこんな状態なんだから泣くに泣けねェだろィ」 伸びきってしまった文字たち。何だかかわいそうだ。 「これどうするのヨ、消すなら綺麗に消さないと、」 「どーしようかねェ。昔は消しゴムが無理なら洗剤まいてタワシで擦ってたんだけどなァ」 そういえば洗剤なんてこの学校で生活していてみた事がない。でもこのまま放置も出来ない。これがこのまま他の学年に渡るのは 嫌だと思う。私たちだけの思い出だ。 「しょうがねぇ、職員室行くか」 小さな欠片になってしまった消しゴムをゴミ箱に放り投げて沖田が言う。 ああ、やっぱり終わる気が全くしない。明日も、明後日もこんな風に過ごせる気がするのだ。 そんなことを考えて突っ立っていると廊下に出ようとした沖田が来ねーの?と言って振り返ったので、ついて行くことにした。 ぺたぺたぺた。下に二つの足音が響く。 職員室の前に着くと何故かいつも緊張する。扉を開くとコーヒーの匂いがしていた。 コーヒーはあまり好きじゃないけどこの匂いは好きだ、職員室の匂い。 二人で顔だけ突っ込んで名前を呼ぶ。さかたせんせー、と。 職員室の中でもあの髪型ですぐわかる。もじゃもじゃした髪が動く。 立ち上がって、伸びをして、先生は面倒くさそうな顔をして廊下へと出てくる。 「おー机ちゃんと消したか?やだよォ、俺主任とかに怒られんの。坂田先生は最後まで指導がなっていませんねぇ、なーんてよォ」 「もう無理でさァ、手に負えねェや、あれは」 沖田がわざとらしく両手をあげる。 「…あのなァ。無理でさァ、じゃねーよ!手に負えないのはこっちだよ、チクショー。あー最後まで問題児の世話するって俺ってほんと良いせんせー」 ぐしゃりと髪を触ってため息をつく。これで最後なんだから、そんなに嫌がらないでよね。 「まぁまぁ落ち着いて。だから消し方聞きにきたんでさァ、そんでそれでも消えないなら捨てちまいやしょう」 「ちょ、捨てるのは駄目ヨ!それなら持って帰るアル」 「えー何なんでィ。重いとか何だとかさっき言ってたじゃねェか」 「・・・重いけど。でも捨てるのは気が引けるし」 「あーもうじゃあどうしろって言うんでィ。俺だって好きでこんなこと言ってるんじゃねェんでさァ」 ああもう面倒臭い!また始まってしまった。私は、捨てるっていう言葉の響きが嫌なんだ。 「…何だおめーら、最後までキャンキャン言いあってよォ。俺ァ卒業式くらい良い感じになると思ってたぜ」 おもしろくねーの、と銀ちゃんが呟く横で私は一瞬だけ(ほんっとーに一瞬だけ)顔が熱くなったけれど、気を静めた。良い雰囲気なんて、私たちには似合わない。 所詮私たちの関係なんて、冗談を言って笑って殴って追いかけてからかわれて、たまに優しくしたり、されたり。それだけだ。きっと、今日もそれだけで終ってしまう。これで最後だ。 それでいいの?と頭の中で誰が言っている。それでいいの?本当に?囁く声がどんどん大きくなる。 ―――もっと何か言う事があるんじゃないの? 進む |