しばらく皆で考え込んだ後(といっても私は違う事を考えていた)、そうだなぁ、と口を開いたのは先生だった。
「とにかく、捨てんのは無理だ。机の数が合わねーだとかまた問題がでてくるだけだかんな」
だから、と先生は付け加える。何か消せるやつが売ってるだろどっかに、それ、買ってこい。そう言い切ったあと大きな欠伸と一緒に、ポケットからしわくちゃの千円札を私の手のひらにのせて、沖田に何か耳打ちをしようとして、やめた。
「気持ち悪ィ、何か言うなら言えばいいんでさァ」
「いやいや、やっぱいいわ。とにかく早く買って早く消して早く帰れ、な?」
銀ちゃんがそういい残して職員室へ入っていた後、学校近くにある大型スーパーに行く事にした。歩いて二十分くらいだ。 しわくちゃの千円をポケットに押し込んで、他に何か持っていくものがあるかと沖田に聞けば首を振ったのでそのまま階段を下りた。
「売ってなかったら無駄足だぜ」
「大丈夫ヨ、あそこにはお世話になったアル。期待を裏切るようなことはしないネ」
そういえばテスト帰りによく寄った。文化祭の買出しにもよく行った。
「…文化祭の時ゴリラがペンキひっくり返して新しいの買いにいったネ」
「あれは志村が追いかけただからだろ、志村が悪ィ」
「じゃんけんで負けて」
「俺とお前以外全員パーな、俺たちだけグー」
「しかもお前が調子乗ってジュースとお菓子まで買って」
「あれは教室着いたら割り勘するつもりだったのにお前が、」
「あの空気で金くれって言う方が無理アル、いいの、皆喜んでだから。楽しかったなー」
本当に楽しかった。大したことなんてない毎日だったのに、きらきらしてた。 あんなことがあったなぁと、ぼんやりとしか思い出せないこともある。出来る限り、はっきりと覚えておけるように、私はひたすら喋り続けた。 一週間前、一ヶ月前、三ヶ月前、半年前と遡って、ひたすら喋り続けた。 あれこれ喋っているうちにスーパーと私たちの距離はどんどん縮まって、到着する。 夕方のスーパーだと制服姿は少し浮いている。太ったおばさんがチラリと横目でこっちを見てきたけど気にしない。 日用品のコーナーの場所も、もう覚えている。迷うことなくコーナーに辿りついて棚の端から探してみる。カラフルな洗剤が並んで、たわしがあって…。
「あった!」
何でもこれでお任せと書かれた白いスポンジの裏には油性マジックの落書きもこれでスッキリ!と書かれていた。
「これでいい?」
「いーんじゃねェの」
「…じゃあ精算してくる」
スポンジ片手にレジへと直行する。夕方のせいかレジには人が結構並んでいて、数分待って順番が回ってくる。 「399円です」と女の人が言って、ポケットから千円札を取り出す。おつりとレシートをポケットに突っ込んで 店を出ると思っていたよりも肌寒い。カーディガンの裾を少し伸ばす。このくたびれた制服ともさようならだ。 行きとは正反対に無言で歩いて再び学校へ戻ってきた。ローファーを脱いで、階段を上がって、教室へ。 袋を乱暴に破いて取り出すと真っ白なスポンジが出てきた。袋に太い眉毛と目がプリントされていたので、真っ白のスポンジを見るとなんだか寂しい。 落書きまみれの机をきれいにしていく。するするすると面白いように消えていった。3年Z組卒業の部分を最後に消す。元通りになったこの机も、また新たな思い出を他の人とつくるんだろう。 職員室に行って、報告をしたら「じゃあもう早く帰れよな」と言われたのでこれ以上することもなかったので帰る事にした。あっけない。
「お疲れさん」
先にローファーを履いた沖田が数歩先で振り返って言う。さっきの教室で言う姿と同じだ。少し離れた距離から言われると、なんだかその分私たちも離れている気がする。あれだけ近くにいても、本当は別々だってこと。 縮まらない、ほんの数十センチをあんまり気にしちゃいけない。鞄を左肩にかけて私は小走りをして沖田の一歩後ろを歩く。何だか今日卒業式があったことが信じられない。これでいいの?大丈夫なの?囁く声が頭から離れない。 私は、これでいいの?一つ目の信号に差し掛かる。青が点滅して、赤になった。ここの信号は長い。もう一歩だけ踏み出して、沖田の横に並ぶ。
「・・・手でも繋いでおけばよかったネ」
好きとかいうよりも、こっちのほうがふさわしいと思う。 車が通り過ぎていく。信号の色が変わって、再び歩き出す。早く、何か言ってよ。
「へぇー」
「へぇーって…」
へぇー、だなんて。でもしょうがない。沖田はそういう奴だ。いつものように、殴り飛ばせばいいのかもしれない。ひどいと叫んでとび蹴りでも一発。でも、できない。 コンビニを通り過ぎて、ガソリンスタンドを通り過ぎて、大きい公園を通り過ぎて、その後の分かれ道で、こいつとももうさよならだ。 分かれ道を目指して黙々と歩く。 沖田がたまに寒ィと言った。「寒ィ」「寒っ」「寒くねェの?」「・・・聞こねーふりすんのやめろィ」だんだん寒いの間隔が短くなってきている。何か言うのは悔しかったのででかいくしゃみをひとつした。
「きったねェ、女だろィ、一応」
「…そのかっわいい女の子の乙女心を台無しにしたアル、お前は」
「…俺ァかわいいなんて言ってねェ」
「さっきから寒い寒いばっかり言って!真冬じゃないのヨ!」
「聞こえてんだったら返事すりゃいいのに」
「『へぇー』とか言って愛想無い返事したくせに」
顔真似をする。済ました顔で『へぇー』と言った沖田の顔、絶対に忘れてやるもんか。 女の子で集まれば卒業の雰囲気でしんみりしたのに。男子でも泣いてる奴はいたけど。 こいつと二人だとしんみりなんていうのは無理で、結局先生が言ったとおりキャンキャン喚きあってしまう。 後ろばっかり見て先が見えない。一年後も五年後も、十年後も、先がずっと見えない。学校で、たくさんの人と一生懸命背を伸ばして、先を探していた。 これからはもう一人で探さなくてはいけない。皆がばらばらになるということ、離れて、大人になるということだ。その人たちが大切な人でなくなるわけじゃない。 距離が出来てもきっと会えばすぐに話すことができる。でも、少しだけ変わる。本当に、少しだけ。会わない期間の小さい隙間ができる。 そのうちどんどん隙間が増えていく。
「あのなァ」
「何ヨ」
すう、と沖田の息をする音が聞こえてくるような気がした。ざわざわと雑音の溢れている街中なのに、私の耳は沖田の音を逃さない。
「何でもかんでも過去形にすんじゃねーよ」
「だって…皆できゃきゃあ言うのも最後、銀ちゃんにお説教されるのも最後、お前とこうして帰るのだって最後ヨ」
ぜーんぶ、今日でおわり。明日から学校はない。(学校はあるけど、授業はないってこと。よくツッコミをいれられた) 学校に行っても、きっと今日みたいじゃなくなる。もうほとんどよそ者だ。制服を着てる子を若いなぁ、なんて思ったりして。 もうすぐ、公園にたどり着く。終わりだよ、終っちゃう。駄目だよ。やっぱり、私は―――。
「じゃあ、将来の約束でもしといてやろうかねェ」
あのね、と言おうとして前のめりになった体を元に戻す。「は?」と間抜けな声をだす。 いつだって、そうだ。少しだけ上から私を見て、前に進んで、振り返る。振り返るときはちょっとだけ優しい。 それでも沖田も変わるし、私も変わる。けど、たまにこうやって、振り返ってくれれば、それでいい。 追いつくように足を進めて、立ち止まったりして。私が前に進んで、沖田に手を差し出すときがくるのもいいかもしれない。
「…バーカ」
どうせなら、大丈夫だよ、傍にいるよとでもキザな台詞でも吐けばいいのに。それこそ別れの雰囲気にやられて、思いっきり甘い台詞を吐けばいいのに。だけど私は小さい棘がささった不器用な言葉のほうがどうやら好きらしい。 からかわれたり冷たくされたり怒ったり笑ったり、たまに優しくされたり。それがどれだけ大事で、愛しいものかが分かるよ。 二度と繰り返せないと思っていた日々の続きがまたはじまろうとしている。ぼやけていた先の世界が少しだけ見えてくる。うっすらと、人の影が。
「…泣いてんの?」
まったくお前は、と沖田がため息をつく前に右手で左手を握る。寒いと嘆いていたくせに、暖かい左手をきつく握って引っ張って、驚いてる瞳をしっかり捕らえて笑ってみせる。 大丈夫、悲しくないから、泣かないよ。


振り向けば

(ほら、未来がみえるよ)