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もう駄目だ、無理だ、どこかへ行かなくちゃ、でも何処へ? これ以上呼吸はできそうになかった。でも足は止まらない。怖い、逃げなくちゃ、何から? 見えない何かは何?走れば、振りきれる気がしたけど、どうにもならなかった。 あそこの道、右に曲がれば人通りは少ない。真っ黒な頭の中で、精一杯の判断を下して、走った。 たくさんの人が私を知っている。私がこの先会うことのない人さえ、私を知っている。 彼らが知ってる私は私じゃない。すごいとか、女子高生とか、かわいいとか、いろいろな情報で固められた私を、見つめている。 「しかし…貴様を上っ面しか見てないものが多いようだな。マスコミ効果か」 ばらばらとトロイにおかれたファンレターにネウロは鼻で笑う。 「貴様はただの人間なのに、こうやって崇められるのか。貴様とこいつらは同じ人間で…こいつらと同じように、貴様も脆い心を持っているというのに。勘違いしている人間が多いようだな」 何も知らないやつらばかりだ、とネウロは嘲笑した。そして目立つように蛍光ペンで縁どられていた葉書が折られる。憧れです、何も恐れず正々堂々と犯人を指すあなたが、という文字もぐにゃりと曲がった。 「…あんたがそうさせたんじゃない」 あることないこと、上手いこと仕立てて、あんたがそうさせたんじゃない。そんなことは言えないけど。 「それもそうだな。だが、ヤコよ、貴様を知る者が何千、何百万といようとも――、」 手首をつかまれて引き寄せられる。痛い。でも、たぶん骨は折れない。折れて困るのはネウロだから。 「忘れるな、貴様の主人は我が輩だと」 低い声で、ネウロが言った。手袋をはめた指先が手首から移動して私の喉元をなぞって、押さえられる。ネウロは口の端から垂れた涎を舌で舐める。美味そうだという声が聞こえてきそうだった。 「や、だっ、はっ、くるしっ、」 ネウロの親指がさらに強く喉元を抑える。出そうになる咳さえも、もう出すことができない。ネウロは獲物を見るように嬉しそうに目を細めて、とても愉しそうに言った。 ―――貴様は、我が輩のモノだ。 路地に入れば予想通り人は少なかった。壁にもたれてずるずるとしゃがんだ。 呼吸は整わない。震える膝を抱える。ここは安全じゃない。もしかしたら、もう安全な場所なんてないのかもしれない。 どこへ行ったって、ネウロは私を見つけるだろう。事務所から逃げ出しても、ネウロは追いかけてこなかった。 私が結局あそこに帰ることをネウロは知っている。もうどうすることもできない。ざっざっざっ。足音がする。ざっざっざっざっ。嫌だ、怖い。 額を思い切り膝にくっつける。見ないで、放っておいて、来ないで。 「おい、」 びくりと肩が震えた。整ってきた呼吸がまた乱れ始める。心臓も痛い。なんかもう、全部痛い。 「あぁ?無視かよ、おい。お前、探偵じゃねーのか?」 荒々しい口調で男の人が言った。私はこの声を知っている。恐る恐る顔を上げてみる。 「ご、だいさん?」 「おー。っつーかお前なんでこんなところでって…って、」 何だよお前、泣いてんのか?吾代さんは向かいにしゃがみ込む。「違う、泣いてない」と小さい声で言うと「じゃあなんでこんなところで丸くなってんだよ」と 眉間の皺をもっと深くして聞いてきた。もう、タイミングがよすぎるよ、吾代さん。 「…化け物に何かやられたか」 「……わかんない」 「わかんないって何だそりゃ、てめぇのことだろ」 「だって、わかんないんだもん」 ネウロは何を考えているのだろう。よくわからない。辛い悲しいもうたくさんだ、なんてしょっちゅう思う。けれど、 嬉しいときだってある。一緒にいて、笑うことだってたくさんある。ただ、通じ合うことはとても難しい。 私はこれからどうなってしまうの?なぜネウロは私の首を絞めたのだろう。あんなに嬉しそうに。 「吾代さん」 「…どうした」 「怖いの…わたしは、わたしじゃなくなるの?」 このまま私の感覚はおかしくなっていくのだろうか。人の死も恐れず、世間の目も恐れず、生きていける? このままずっとネウロと生きていくのか、先はわからない。ネウロに首を絞められて、殺されることさえも、私は許すの? 「昔の自分と今の自分がずっと同じなんて無理に決まってんだろ」 お前は俺を見てよくわかってるんじゃねーのかよ、と真っ直ぐな目が私を見て、荒々しく手のひらが頭の上におかれる。 ぽん、ぽん、ぽん。見かけとは違って可愛いことするんだなぁと思うと少しだけ笑いそうになる。吾代さんも「な?大丈夫だっつの」と笑う。この人の言葉は、とても暖かいことがよくわかる。 だから、この人まで、私は失いたくない。私のせいで、この人を失いたくない。大事な人をもう失うのは嫌だ。そう思うと途端にゆるんだ口元が震える。 「どうして…どうして優しくするの?放っておいたほうがいいよ、嫌だよ…」 「…何が嫌なんだよ」 「いなくなったりしたら、いやだ、怖い、怖いよ…ネウロが、だから、嫌なの、お願い、放っておいて、」 ぐちゃぐちゃな言葉だらけだ。ネウロは何がするかわからない。私の首を絞めようとしたネウロは狂気じみていた。 あの瞬間にはっきりとわかった。生きる世界が違うのだと。私が今まで背けてきた現実だった。同じ地上で歩いて、生きていて、やることはおかしくても、信じられなくても、心のどこかでは同じ生き物なんじゃないかって、思ってたりしていたのも 全部、間違いだった。それでもネウロは私を離さない。そんなこと、ネウロは気にしない。私は、ネウロからもう逃げられない。右手首は赤く染まっている。ネウロの指の通り、一周分。まるで手錠のようだ。 反対に目の前の人はとても優しい。顔に似合わず、本当に優しい。私と目線を合わせてしゃがむ姿はまるでヤンキーのようだけれど、この人が全く怖くないことを、私はちゃんと知っている。 「あのなぁ、」 「…なに」 大きなため息。前髪が揺れて、一瞬瞼を閉じる。 「…お前が、俺を放っておいたことなんてあったかよ」 ほら、やっぱり、優しいんだ。吾代さんのバカバカバカ。なんで優しくするの。 泣かないために一生懸命目に力をいれる。代わりに鼻水はでてきたけど、思い切りすすって、鼻水が垂れっぱなしは阻止する。 「行くぞ」 「…どこへ」 「家」 「…家って、誰の?」 「誰のって、俺のに決まってんだろ。それともずっとこんな地べたでぐじぐじ言ってんのか、てめーは」 思い切り首を振る。よし、と吾代さんが私の手首を掴んで勢いよく立ちあがる。ネウロと同じ右手首を掴んだ、大きな手は不思議と怖くはなかった。 そのまま掌は重なり合う。あったかい。力が抜けて泣きそうになる。魔人は人の温もりを持っていなかった。遠くの場所から人間たちを見ている。いつまでたっても近づくことができなかった。 ネウロ、あんたはきっと、上っ面だけで私を見る多くの人間よりも私のことをよく知ってる。だって、あんたは私の心が脆いって言ったじゃない。 私は温かな手をずっと欲していた。ネウロ、あんたの言った通りよ。私の心はとても脆い。だって、重ねられたこの手を振りほどくほど、私は強くなんてないから。 「吾代さん、…大丈夫なの?」 今さらかもしれない。大丈夫なの?言葉の意味を全部吾代さんはわかっているだろう。 「何なら一緒に死ぬ覚悟もしといてやるぜ」 聞こえるはずもないのに、かちゃりと手錠の外れる音が聞こえた。 (きっと、私は傍にいてくれる人が欲しかっただけだった。ネウロから離れられなくなる自分を恐れていた。それでも、私は恋をした。迷いはもうなかった。 恐怖じゃない安堵感、それが恋だということを、やっと知ったのだ。ネウロは表現の仕方をしらなかった。あれが、ネウロにとっての愛だったのかはわからない。 きっと、私は明日いつも通り事務所に戻るでしょう。普通の顔をして、何事もなかったかのように。でももう、あんたを愛することはできないよ。 涙が出そうなくらいな暖かなこの気持ちを、教えてあげられなくてごめんね、ネウロ) 20090517 人の愛し方 |