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いつのことだったか、人間の真似事をしてみたことがある。随分と前のことだ。愛していると耳元で言って、額に唇を落とした。 そうしたら我が奴隷はたいそう嫌そうに顔を歪めて「やめて」と小さな声で言った。何故だと問うてみても返事はない。 しばらくして今度は「お願いだから、やめて」とはっきりとした声で言って、鼻をすすった。ヤコは、泣いていた。 ヤコの濡れた頬を見て、心底うんざりしたのを覚えている。何故泣くのかが、理解できなかったのだ。 くだらない、そう思ったのだ。ヤコが濡れた眼をこすって、息を吐き出す。赤い眼でこちらを見つめていた。その動作が何の意味をもたらすのかも理解しようとは思わなかった。 窓の外で漆黒の闇の中に月が浮かぶ、夜の出来事だった。 あれから幾つかの季節が過ぎた。ヤコが涙を流すことは少なくなった。本人は大人になったからだと言う。人間は時に愚かで、しかし、素晴らしい生物だ。 物怖じもしない。我が輩の後ろを歩いていた足は気がつけば真横に、時には前にまで進んでいる。 こうも変わるものなのか。誰が、変えたのか。我が輩か、貴様自身か、この世界か。何でもいい、ヤコが変わることを我が輩が望んでいたことだ。 いつも通り、事件を終えた。腹の足しにもならない謎だった。数メートル先の信号が点滅して赤に変わった。轢かれても死なない体だが、地上のルールはできる限り守っておく。 足を止めると二歩先を歩いていたヤコの横に並ぶ。あと少しで日付が変わるだろう。住宅街の人通りは少ない。 「ねぇネウロ、何を恐れてるの」 「…何がだ」 「疑問に疑問で返さないでくれる?」 貴様だって、我が輩の問いに答えなかったことがあったろう。ヤコの眼はまっすぐにこちらを見ている。あの時と全く違うではないか。 「…答えてよ、あんた、どこを見ているの」 私、ちゃんとここにいるじゃない、ねぇ、ネウロ、どこを見ているの?ヤコの言葉が脳内で上手くつながらない。 恐れている?どこを見ている?全く違う問いかけではないか。 ヤコ、貴様にはこの世界、どのように映っているのか。貴様の目には、偽りの姿をしている我が輩がどのように映っているのか。恐ろしい化け物だと思うか?食の為に命さえも犠牲にしようとする、滑稽な生き物だと思うか? 貴様だって、我が輩を容易くは理解できない。わかっているだろう、人間であろうと魔人であろうと、互いを完全に理解するなんて無理だということを。結局は別の生き物なのだから。視線を逸らす。 皮肉にもあの日と同じように漆黒の闇に月が浮かんでいる。今回は窓越しではない。一層眩しく見える。 何も答えない我が輩に呆れたのか知らないが、ヤコが口を開く。 「…今日の事件、ひどかったね」 今日の事件は、殺人事件だった。よくある、と言ってはいけないのかもしれないが(これも地上のルールだ)女が男に殺された。 制服姿の女が血の中に横たわっていた。それと何が関係あるというのだ? 恐れている?何を?我が輩自身が変わることを?―――ただの小娘一人を失うことを? 何と馬鹿馬鹿しい答えなのだろう。魔界に居たころの自分がこの姿を見たらどう思うのだろうか。情けないと嘲笑するのか。或いは称賛するかもしれない。 仮に我が輩が貴様を失いたくないと願っているとしよう。そうしたら、その思いに名前はつくのか?この理解し難い思いにも、人間はちゃんと名をつけているのだろうか。青信号。再び歩き出す。 いつだって、どの生物の世界も動いているのだ。魔人であろうと、人間であろうと、カチリカチリと音をたてて、世界は動いている。 「早く帰ろうか、寒くなってきたし」 躊躇いなく繋がれた手。歩くの遅いんだもん、とヤコが少し眉を下げて笑う。 ああ、ヤコよ。今の我が輩が愛していると言ったら、貴様はまたあの時のように泣くのか? 20090502 目覚める夜 |