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今いる状況が当たり前だと思えることは、幸せなことだと思うの。 だから、人間にとってその当たり前を失くしたときが、一番怖いんだよ。 例えば今こうやって食べてるケーキも、明日食べられなくなっちゃう、とかね。 そう言って少女は赤の果実を口に放り込んで微笑んだ。あの時、なんて陳腐な例えだと、魔人は笑っていた。 この世で生まれたものはすぐに朽ちていく。 地上は儚いものばかりだ。幾つもの季節が過ぎる度に自然は生まれ変わる。 新たな命が生まれることもあれば、消えゆく命もあるということだ。魔人は人間よりもよく理解していた。 スーツのポケットから一枚の写真を取り出す。魔人の持ち物の中では一番古いものだ。けれど魔人はそれを手放すことができない。 インスタントカメラで撮った、ごく普通の写真だ。随分と色褪せた写真の中で、少女が微笑んでいる。 撮影をする前に、少女と魔人はいくつかのやりとりをした。どれも他愛のないものだった。 その会話を何故か魔人ははっきりと覚えている。少女とは幾度も他愛のない会話をしてきたが、その時の会話を忘れることができなかったのだ。 隣に並んだ時、少女は背伸びをして魔人の耳元で囁いた。 ―――ネウロ、笑ってね。 生憎シャッターを押したのは人物ではなく髪の毛だっただめ、少々ぶれているが、今にも写真の中のこの少女は唇を動かして、自分の名を呼ぶのではないかと思うときがある。 ネ、ウ、ロ、と。たった三文字、それだけでいいのだ。この写真を手放す時は、もう一度あの笑みと共にあの声が聞ける時だと魔人は決めていた。 そんな時は二度と来ないと、知っていながら。写真の中、少女の隣にいる男に目を移す。魔人は見る度に失笑してしまう。 もうこんな風に笑うことはないのだろう。こんな笑い方なんて、覚えていない。 (我が輩の名を呼ぶ人間などもう存在するはずがない) (あの声で、あの顔で、我が輩の名を呼ぶ人間なんて、) (存在するはずが、ないのだ) 魔人は瞼を閉じる。記憶の片隅で笑う少女を思い出す。 その少女が、あの日あの時、共に過ごした彼女であるかどうかは分からない。記憶の中の少女は少女であって、少女ではないような気もする。 声が聞こえない。忘れるはずはないと思っていた。あの声も、あの顔も。全部だ。 なのに、今は確信が持てない。季節が流れ過ぎてしまった。失うはずがないと思っていた。 確かにわかることは、あの時の自分は、確かに幸せだったのだということだけだ。 20090923 ストップモーション |