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幼い秘めごと 放課後、神楽ちゃんが一緒に帰ろうと誘ってくれたけど断った。日誌が書けていなかったからだ。 日誌なんて適当にしたらいいアル!何か食べに行こうヨ!と彼女は笑いながら言ってくれたけどそれでも私は断った。 教室から全員出て行ったあと、やっぱり一緒に帰れば良かったかもしれない、と思ったが日誌を適当に書くわけにはいかない、と思い直した。 日誌を書く前に、薄く文字が残ってる黒板を端から綺麗に消していったり、花瓶の水をかえたり、とれかかっている掲示物を貼り直したりしていたらすぐに時間はたった。 皆が帰るときにはまだ青かった空も、すこし暗くなり始めていた。 日誌、書かなきゃ。やっと自分の席に座って、ため息をついた。 背表紙がぼろぼろになりかけている日誌のページをめくってみると、落書きが書かれていたり、一言しか書かれていなかったり、そんなページばかりだった。 たまにある細かく書かれたページは私が書いたものか、あとは桂君か新ちゃんぐらいだろう。 神楽ちゃんが書いたページは片仮名が多く見られたし、沖田君が書いたページなんかもう日本語じゃないみたいだ。 たまに下に書かれてる先生のコメントが面白かったりして、教室の真ん中、しかも一人なのに小さな声で笑っていると、扉が開く音がした。 「なぁに、お前まだやってんのー」 坂田先生だ。気づいた瞬間少し半笑いだった口を思い切り閉じて、頷いた。さすがに教室で一人で笑ってる姿は怪しいから見られたくない。 先生は私の前の席の椅子に座った。ギシッと少し椅子のきしむ音がした。 やだ、近い。先生の白衣から煙草の匂いがする。近い、煙草、匂い。3つの単語が頭の中でくるくるまわる。 シャーペンを握り締めたままそんなことを考えていると、先生が早く書けよ、と言ってきた。 そうよ、日誌。忘れてた。まだ何も書かれていない白紙のページに、名前を書く。 「先生、何しに来たんですか」 「何しにって、まだ誰か残ってんなぁと思って」 ほら遅いしよぉ、と先生が言うので時計を見ると5時を過ぎていた。 確かに遅いなぁとは思ったけど、それは私がいつも早く帰るからであって、部活の人なんかはまだ帰る時刻ではない。 「5時って別にそんなに遅くないんじゃ、」 「ほらほら最近物騒だから、それに女子一人だと危ないだろ」 「別に私なんか襲う人居ませんよ」 笑いながら言うと世の中なにがあるかわからねーからな、と先生も笑って言った。 先生の笑う顔が好きだ。先生が笑った瞬間(しかも私だけに向けられたなんて思ってしまった)顔が熱くなる。 話しながら書いていた日誌ももう書く項目はあまりない。これを書上げたら終ってしまう。 でも手をとめるのも不自然だと思って、一文字をゆっくり書いた。今日の行事の欄だ。 行事は何もなかった。"なし"と書くだけ。いつもなら3秒もかからないこの2文字もゆっくり、ゆっくり書く。 途中でシャーペンの芯が折れて飛んでった。 でもどれだけ力をいれても、二文字だ。1分もかからないうちに書き終えてしまった。 シャーペンを置くと、先生も書き終わったのに気づいたのか戸締りをし始めた。 こうなったら私も戸締りをするしかない。立ち上がって、先生がベランダ側の窓を閉めているので、私は廊下側の窓を閉めた。 でも、上の窓には届かない。背伸びしても鍵に手が触れるくらいでなかなか閉まらない。 あともう少しなのに、と手を思い切り伸ばしていると後ろから長い手がカチャリと鍵を閉めた。 先生、それ反則です。 「よーし、帰るか」 パチリ、と音がして電気が消えた。終ってしまうんだ。もしかしたらもう二度とこんな風に二人きりになることはないかもしれない。 もしかしたら、明日また二人きりになるかもしれない。 そんなことはわからないけれど、でも少ない希望がみえる未来にかけるより、今この場所で。 「先生」 叫んだわけでもなく、呼び止めるような声でもなかった。気がついたら独り言のように私は先生を呼んでいた。 無意識っていうのは怖い。先生が振り返る。私は手や足は震えているのに口だけはしっかりと動いていて。 「好きなんです」 先生の事が、と小さな声で付け足した。好きなんです。何度も何度も心の中で言ったこの言葉はやっと外へ出ることができた。 何もこんなときに言わなくても良かったんじゃないか、とか思った。もう遅い。 ねぇ、先生。好きなんです。届かないんです。叶わないんです。どうしたらいいのかわからないんです。 私がどんなに頭が良いと言われようが、大人っぽいと言われようが。この思いはどうすることもできなくて。 「志村ァ、先生困るだろーが」 いつもと変わらない声で先生は言った。そしてまたさっきと同じ椅子に座る。私もさっきと同じ椅子に座った。 先生の顔も何も変わらない。少しくらい動揺してくれたって良いのに。 無性に腹が立って、机でも投げ飛ばしてやろうと思ったけどやめた。今動いたら泣いてしまうかもしれない。 目に力を入れて息をするのにも慎重になって。私は先生を見たままだ。先生も私を見ている。 はたから見たら見詰め合っている状態なのかもしれないが、そんな甘い雰囲気が漂ったものではない。 「俺お前がそんな生徒だとは思ってなかったんだけどなぁ」 真面目、といえば真面目だと思う。自分でも。確かにどの授業でも寝たことなんかない。 それは普通の事だ。そうしないと気がすまない性格だから。しょうがない。 でも私が真面目に授業を聞くのも、日誌を書くのも、先生が私を見てくれるかもしれない。そういうのも少しはあった。 私なりに頑張ってきた。もちろん先生の為だけじゃなくてクラスの為にも。 うぅん、と先生は唸っていた。銀色の髪をいじったり、ペンをまわしながら。そしてしばらくの沈黙のあと、 「お前結構モテんのにな、近藤とか。他にも絶対惚れてるやついんのに」 何で俺なんだろうな、と先生は言った。先生だから好きなんです、と私は心の中で返事をした。 大体先生だってモテてるじゃない。猿飛さんとか神楽ちゃんとか。(猿飛さんは真っ直ぐに先生が好きだけど神楽ちゃんはどうかわからない、でも) 「私より、先生の方がモテてますよ」 「そりゃ俺いい男だし」 「校内で煙草は吸うし、口は悪いし、授業はよく遅れるし、教える側なのにたまに寝てるし。それのどこがいい男なんですか」 「…酷いなぁちょっとちょっと。先生傷つくじゃない」 先生は手で顔を覆ったけど、手の隙間から少し笑ってる先生の顔が見えた。 「でも、先生は優しいから」 悪いところがあったとしても、生徒は皆それを先生らしいと思ってるし(腹が立つこともあるけれど)そこが好きなんだ、きっと。 笑った顔とか、拗ねた顔とか表情が好き。大人なのに子供のようだから近づきやすくて、でも頼れて、安心できる。だから、好き。 「優しいじゃなくて優しすぎるのかも知れませんね」 先生の手が顔から離れる。先生は驚いているような顔をしていた。口が悪くても、先生は進路だってちゃんと考えてくれるし、相談に乗ってもくれる。 生徒と同じように一緒に考えてくれる。 暴走族にからまれた生徒がいたら愚痴を言いながら生徒を庇った事もある。次の日先生の頬は青くなっていた。 だから先生は今もきっと私が傷つかないような言葉を一生懸命頭の中で探してる。 人を困らすのはあまり好きじゃない。だから言わなかった。ずっとずっと隠しておけばよかった。 どんなに勉強しても、頑張っても私はまだ幼い。先生からしてみたら私は子供なんだ。 私が大人の先生に憧れたように、大人の優しさに惹かれたように。 先生が私を見ようとしても、それは生徒だから私を見る。 「先生は先生で、生徒は生徒で大人は大人で、子供は子供で、どうしようもできないんですね」 「そりゃ、なぁ。どうしようもできねぇよ」 「…先生でもどうしようもできませんか?」 そう言ってから、自分でも自分が虚しく思えてきて、くすりと一人で笑った。無表情だった先生の顔が少し変わった。 私は分かっていて言ったつもりだった。結局大人は大人、子供は子供で。先生は先生、生徒は生徒。 その間に成り立つ恋愛はあまりないということも分かっているつもりだった。つもり、であって少しだけ期待はしていた。 だけど言ってしまえばどうにかなるもんだなんてそんな甘く考えてはいなかった。 考えて、考えて、泣いたことだってあったのに。これは生徒と先生の会話だ。子供と大人の会話だ。何も間違ってはいない。 「私帰ります」 逃げかもしれない。でも先生は、この言葉を待っていたはずだ。早く帰ってほしくて、しょうがなかったはずだ。 私が言わないといけなかった。私から言わなければ一生このままだ。だって、先生は優しすぎるから。 机の横にかけたる鞄をとって、教室の扉に手をかける。少し鼻をすすったら、先生の髪が揺れた。 「志村」 今度は先生が独り言のように私の名前を呼んだ。嬉しくて、笑いそうになるのを我慢する。 もう泣きたいのか、笑いたいのかわからない。俯きながら振り返ると先生の足が見えて、先生はすぐ近くに立っていた。 「…泣いてると思いましたか?」 「普通泣くってこんなの」 「泣きませんよ」 「志村はよく頑張ってるからなぁ」 朝黒板見たら、かなり綺麗だし、花ももう枯れるかなぁと思ったら枯れねぇし、風がすげぇ吹いた日のあとなのに、掲示物綺麗に並んでるし。 日誌も一番お前が細かいし。先生はゆっくりと言う。 一つ一つの言葉が優しくて、私の体の中を暖かくしていく。 「そういうとこ見てんだよ、ちゃんと」 そんなこと言われたら、先生。私またどうしていいかわからなくなる。 それでも明日も明後日も明々後日も黒板を綺麗に消して、花瓶の水を替えて、風が吹いた日には掲示物を貼り直すんだろう。 今までと何も、変わらない毎日を、きっとこれからも過ごしていく。 「先生、私、これから先も当分先生の事忘れられません」 「あー、うん」 先生の目が泳ぐ。それでもいいですか、と続けようとしたときには先生との距離がさっきよりも近くなっていて。 先生が屈んで私と目線をあわす。こんなに身長差があったことを、私は初めて知った気がした。 あの、さ。忘れなくて良いよ、という低い小さな声が耳元でした。それは本当?だって、ほら。先生は優しすぎるから、そう言っているだけじゃないの。 そう言いたかったのに我慢していた涙が、いつの間にか目から溢れ出して、言えなかった。泣きませんよ、なんて言ったのはどの口だ。きっと先生もそう思っているに違いない。 涙でぼやけて先生の顔が見えないけど、少し赤くなって笑ってる気がした。 ああ、これは嘘じゃない。 0507026 |