負けた。
負けるのってこんな感じか。そう思う自分と、悔しい悔しいと思う自分が居るのがよく分からなくて、疲れる。 秋田に帰ってきたらすぐに練習が始まった。もうすぐ今年も終わる。たぶんあまり経ってないけど、あの試合からどんくらい経ったかも、数えてない。

止められない。こんなやついるのか、って思った。俺に止められない。じゃあ、もう誰も止められない。 ふっと心の中で音がなった。闘う気がなくなる音だ。何度も、俺じゃない誰かのその音は聞いてきた。 この音、俺の中でも鳴るんだ。もういいじゃん。負ける。勝てないのならつまらないものになる。 思っていたことを言ったら頬を殴られた。痛かった。

頬に落ちてきた涙の意味も、分かりそうで、分からない。

俺は、誰かに欲しいと思われているものをもってる。泣かれるほど、欲しいものを持ってる。
分かったのはこれだけだった。オレが大嫌いな感情だったのに、すごいと思ったのも、どうして自分がコートに戻ろうと思ったのかはわからない。でもたぶん、木吉でも黒ちんでもなくて、室ちんだったから、俺は動いたんだと思う。

「室ちんはさぁ、もういいの?」

コーヒーを注いだカップを持って室ちんが振り返る。一つを俺の手に持たせて、もう一つを口元に運んでいった。 ふぅっと息をふきかけても、まだ熱いみたいで、飲むのをやめた。そうだなあ、と言いながら首を上にあげて、天井をみる。カップの中でコーヒが揺れてるから、こぼさないでほしい。

「あの時、やっと認めることができたんだ。ああ、こいつは…すごいって」
「ふぅん…あっさりしてんね」
「あっさりって、わけでもないけどな。あんなに、自分が思ってたことを話すのも初めてだったんだ」
でも試合中にあれは、情けなかったかな、って笑った。
負けたらあんな気持ちになるのを知らなかった。試合中に人に殴られるのも初めてだった。
「あれ痛かった」
「ごめんな」
「いいよ、もう」
殴られた痛みなんて試合が終わるころには忘れてしまっていて、頭の中には負けしかなかったんだ。 誰かにパスを出したのも初めてだった。足は勝手に動いた。跳べなくなるのも初めてだった。
負けて泣くなんて初めてだった。

あれだけ馬鹿にしてきた涙を、俺は流したんだ。あんな気持ちになることを、俺は今までずっと知らなかったんだ。


「オレ、ずっと分かりあえないと思ってた」
「…誰と?」
「わかんない」

今までオレを妬んできたやつかもしれない。大きいと道端で言ってきたやつかもしれない。 負かした誰かかもしれない。黒ちんかもしれない。木吉かもしれない。室ちんかもしれない。 手に持ったカップの中では黒い液体がゆらゆら動いている。ブラック、飲めないのに。受け取っちゃった。

「でも、考えることはできんだなって、思ったんだよねー」
ぱちぱちっと瞬きをして、室ちんはカップをテーブルに置いた。オレのこと、そうやってみてたんだって、ちゃんと考えれたんだ。
「そうか…俺も、そう思ってたな」
「うん、そうだろうね」
「はやいな」

だって、誰かと分かりあうってなかなか難しくない?絶対その人にはなれないんだから。 俺が室ちんの気持ちを分からないように、室ちんだって俺の気持ちは分からないんだ。
「室ちんはうまいこと隠してるだけで、自分の気持ちばっかりだよ」
室ちんは何も言わない。右目はどこを見てるのかわからない。あの試合のときまで、才能だなんだのって言わなかった。 体育館に残る姿をみて、指輪を見つめる姿を見て、なんとなく気付いた。オレの大嫌いな匂いを隠してる。
「火神のこともそうじゃん。あの試合ので俺のこと殴ったのだってそうじゃん」
努力、熱血、夢、オレの大嫌いなもの。オレのことを分かろうとしないもの。
「…そう思ったのに、何で最後までコートに残ったんだ?」
「……室ちんが必死だったし。負けるの、イヤだったから、やっただけだし」
まだ、わからない。でももうあんな気持ちになるのはイヤだ。自分の役割を考えて、って誰かがよく言ってた。ねぇ、黒ちん。考えたら、楽しくなるの? 俺の役割は?このチームの中で、オレはどうすればいいんだろう。
「なぁ、敦」
「…なに?」
「勝ちたい気持ちが、好きってことじゃないのか?」
いつもなら手に握ってるカップでも投げつけるとこなのに、そんな気にもならない。好きとか、好きじゃないとか、バスケをやるのにそれはそんなに大切なこと? 理由なんて人それぞれだ。オレは、好きじゃない。
「…好きじゃねーし。怒るよ?」
睨んでも、室ちんは全く気にしないで笑う。片手で頭を撫でるだけだ。 負けるのがイヤだ。勝ちたい。その勝ちたい気持ちが好きなら、じゃあ、オレはずっとバスケが好きだったってこと? 嘘だ。負けるのがイヤ、それだけだ。負けたくない、悔しいから、練習はする。勝つために。跳べなくなるなんて、もうイヤだ。

「そっか」

それだけ言って室ちんはポットの方に向いた。横にある籠からスティックシュガーとミルクをとって 俺の手にもってるカップの中へ注いだ。2本のスティックシュガーは真っ黒の中に沈んで、ミルクの白が弧を描いた。
「混ぜるのは自分でやれよ」
スプーンを受け取ってカップの中をぐるぐると回すと、真っ黒のコーヒーの色がどんどん変わっていく。少しだけ甘い匂いがする。 ケーキが食べたい。とびっきり甘くておいしいものを、今ここで二人で食べたい。食べ物の力はすごい。美味しいって気持ちはどんな人とも共有できる。 俺が誰かと同じ気持ちになれる唯一の方法。室ちんとオレはこんなにも考え方が違うけど、きっと美味しい気持ちは二人で分かち合える。

「なんかさぁ、室ちん、すごいね」
「ん?」
「オレと一緒に過ごすって大変でしょ。オレ、言葉選ばないらしいし、マイペースだし」
「確かに、それはそうだけど、大変ではないな。敦に会えてよかったと思ってるし」
「室ちんが妬むところいっぱいあるのに?」
「それは、それさ。…さっき敦が言ってたけど、才能がある人間がどんな気持ちかって、分かろうとしなかったよ。…まぁ、分からないから無理な話だけどな。だから、ちゃんと考えようと思ったよ。自分勝手を押しつけるのは、そろそろやめにするよ」
「そんなの急にできんの?」
「難しいな。でも、そうしようと思わないと、いつまでたっても変われないから。あ、言っとくけど、考えはするけど、自分が正しいと思ったことだったら俺は動くからな」
「はいはい」
室ちんがテーブルからカップを取って口つけた。喉が動いて、コーヒーは全部流れていった。
たぶんちゃんと人と関わるのはうまくない。なんとなく、当たり障りなくだったら関われるけど名前は覚えることができない。オレが何も言わなければ何ともならないこともあるけど、気がつけば言ってしまうことの方が多い。 そのたびに喧嘩をして、怒られて。教師にも煙たがられてたと思う。言っていいことと悪いことがあるだろう、と、何度言われたことか。 嘘を言ってはいけないだろう、と教師は言わなかった。他の誰かも言わなかった。オレが事実を言っているということを、奴らは認めていたんだ。 ほら、自分たちだって、本当はそう思ってるんだろう。それなら俺と何も変わりはしないじゃないか。どっちだって酷いことをしてるというなら、本当のことを話せばいいと思う。 「それに、」と室ちんが言って、カップをテーブルに戻した。

「俺と一緒にいるのだって、大変だと思うぞ、敦」
「んー…そうかなあ…あんまそれは考えたことない」

大変かな。どうだろう。確かにあの試合の後から室ちんは暑苦しさが増した気がする。でも嫌じゃない。どうしてだろう。 お菓子をくれる。誰かと揉めれば仲裁もしてくれる。俺が事実を言っても、室ちんはその事実を受け止める。 敵わない奴がいても、それでも、バスケをする。言葉でぶつけてくれる。嘘で繕って慰めるより本音と本音がぶつかる方がいい。
「ねぇ、室ちん」
「どうした?砂糖足りない?」
「えー?ちがう……まぁ、いいか」
「気になるだろ。一度言ったことは言った方がいい」
「やっぱいい」
「そう言わずにさ」
室ちんが横に座る。もうしつこいなあ。何でそんなに笑ってんの。あのとき、泣いてた顔と全然違うじゃん。 あの涙の意味、やっぱり分かりそうで、分からない。でも、ちゃんと考えたんだよ。手に入らないものがあって、悔しくて、絶望した気持ち、オレは感じれないから分からないままでもいい?オレが知らないものでもいい?それでも、室ちんはバスケを続けて、勝とうとする?オレはオレのままで、バスケをしていい? バスケは、まだやめないから。バスケを理由が分からなくても、勝って嬉しいって気持ちが、分かち合えるものなら、俺は室ちんと勝ちたいと思う。言おうと思ってたことは、やっぱり言わない。だから今日は、これぐらいなら言ってあげてもいいかな。


「次、勝とうね」



20120923 僕がいる世界